明確な判断基準を持っていますか。

広島市内も秋を一足飛びにして、冬の様相を呈してきました。

寒さが苦手な私にとっては、つらい季節となりました。

昨日は西本塾生で、香川から学びに来てくれている長尾さんの個人指導を行いました。

神戸の竹内さんと長尾さんは、もう何度私の直接指導を受けてくれているか分かりません。

最新の西本理論というか、今風の言い方で言うと、私の考え方や指導方法の最新版を常にアップデートしに来てくれている人たちです。

私の考え方を伝える今現在の言葉は、4年前とは全く違う言い方をしているかもしれませんし、一か月前とも違うかもしれません。

実技に関しても同じです、FBTの指導でも動きのポイントとなる部分や、動き方に関しても初期の指導を受けた人たちには申し訳ないくらい説明の仕方が変わってきました。

彼らと接することで、毎回私自身新しい発見もあり、有難い存在となっています。

さて、週末久しぶりに行った西本塾を終え、改めて気づかされることがありました。

それは施術を行う立場の人にも、トレーニングを指導する立場の人にも、それぞれ明確な目標というか、「何をもって治したと言えるのかどうなったことでトレーニングの効果を確認できるのか」がはっきりとしていないということです。

施術という視点から見ると、どこかが痛いという選手(もちろん一般の方も含めて)の施術を依頼された時、施術する側も受ける側も、目的とするのは痛みを取る少なくするこに意識が行き過ぎているのではないでしょうか。

痛みに対する耐性というか感覚は、まさに大きな個人差があります。

また、痛みが取れる少なくなることが、イコール患部の治癒ではありません。

そのことの本当の意味がお互いに分かっていないから、痛くなくなったという感覚になったことで治した、自分のケガは治ったという感覚になっているのだと思います。

ところが、一生懸命治施術した自分の技術が、相手の役に立ったと信じて疑わなかった選手が、また同じ痛みを訴えてくることに、自分のやっていることは本当に正しい事なのだろうかと、ある意味無力感さえ覚え疑心暗鬼となってしまうのです。

真剣に体と向き合っている施術者ほど、そういう感覚に陥ってしまうと思います。

体を鍛えるトレーニングも同じです。

数値で表される筋力や体のサイズが、指導する側の意図した通り、指導される側の希望通りになって行くことと、本来の目的である競技動作の向上という、選手にとって最も重要な目的が達せられているのかと言う問題です。

当然その目的に近づいていると、お互いに何の疑いもなく信じて努力しているはずです。

それがある一定のレベルを超える能力を身に付けようとした時、そうならないことに気づいている人は多いと思うのです。

しかし、それ以外の方法論というか選択肢が与えられていないから、真剣に取り組んだにもかかわらず結果に結びつかなかった選手ほど、誰のせいでもない自分の努力が足りなかったのだと、自分を責めるのです。

指導する側も、それ以上の何かを持たないため、自分が出来ることはすべてやった、あとは選手個々の能力の違いとしか思いようがなくなってしまうのです。

そういう例をたくさん見てきました。

痛みが取れれば治った、筋力が強化され体格の向上が見られることで競技力が向上する、みんながそう思っているにもかかわらずそうならない現実に直面している人たちが実はたくさんいるのです。

もやもやが晴れない中で、ではどうすれば良いのか、その答えが見つからないからない、私の書いた文章を読み、もしかしたらそのヒントでも得られかもしれない、そう考えた人たちが「西本塾」に参加してくれます。

今回の西本塾には、施術する立場とトレーニングを指導する立場の両方の方がいたため、改めてこのことを強く意識することになりました。

私自身、両方の立場を一人でこなしてきました。

目の前の選手をどうやって治し、どうやって競技力を向上させるか、私なりに試行錯誤を繰り返しながら、その時々で最良の結果を残し続けてきたつもりです。

しかし、それらをきちんと言葉にすることができなかったことが、私の技術や経験を伝えることができないという、自分の中での言い訳を作っていたのかもしれません。

それがこの4年間で、西本塾や個人指導をはじめ、それまでと違った視点で物事を考えるようになったことで、一つの結論に近づいたように思います。

それが「人間の体は関節を6(8)方向へ動かす機能を備えていて、身体中の全ての関節がその機能を発揮して連携連動することができるようなカラクリが仕組まれて生まれてくる」と言う事実です。

それがうまく機能できなくなることが、体にとっての違和感として現れ、それが高じると痛みという感覚に変わるのではないかということです。

もちろん外傷での痛みは除きますが。

また運動能力の巧拙、高いレベルでの能力の差は、まさにこの6(8)方向への連携連動が、自らの意図した通りに反復継続して行えないということに尽きるのではないかと考えたのです。

施術の目的は、痛みにばかり気をとられるのではなく、自分の思ったような動きができるようにして行くということのはずなのです。

痛みがないから治った、痛みがあるから治っていない、痛みがまだあるから動けないということではなく、連携連動が滞ってしまう部分を如何に改善し、動ける体を取り戻して行くかということが、本来の意味での体を治すということではないのでしょうか。

同じようにトレーニングの目的も、たんに数値的な向上を目指すのではなく、こういう動きができるようになりたいという、「自らが意図企図した筋肉の収縮活動を反復継続して行うことができる能力」と定義した私の技術というものに対する基本的な能力を、少しでも向上させるためには、筋肉が行ってくれる骨を動かすという仕事を、如何に効率よく行ってもらえるようにできるかということが、本来のトレーニングの目的であるはずなのです。

そういう明確な目的であり目標が設定されていないために、指導する側もされる側も、どこかに迷いを持ちながらそれを継続して行うしかないのだと思います。

やはり人間は関節を6(8)方向に連携連動できるという、地球上でも稀に見る能力を授かった動物なのです。

その根本になるのが骨盤と背骨です、この部分を一般的に「体幹」部分と呼んでいます。

体幹を強くする、体幹を安定させる、とりあえずその言葉をキーワードとして使えば、現状ほとんどの人はそれ以上突っ込んだ質問をすることはないと思います。

世の中常にそういうことになっています、一流選手が行っているから、マスコミがそう書き立てるから、本質的なところに目を向ける人は本当に少ないです。

ではその体幹部分が安定しているとはどういう状態でしょうか、言葉のイメージからすると固定されているというか、ぶれないぐらつかない、とにかく頑丈で固いイメージが良いとされていると思います。

果たしてそうでしょうか、体幹部分は骨盤から腰椎5個、胸椎12個、そして頸椎7個の合計25個の骨と、その間にあってクッションの役割を果たしてくれている椎間板と言う組織が作る関節部分があるからこそ、しなやかで強靭な体幹部分を構成してくれるはずです。

固める安定させるのではなく、一つ一つの椎骨の関節をどれだけ自由に動かすことが出来るかが、全体としての背骨と骨盤の動きを決めるのです。

そのしなやかさと強さを作るのが本来のトレーニングの目的です。

だから数字に表しにくいのです。

施術で体の状態を整えるのも、トレーニングで競技力の向上を目指すのも、最終目標はここにあります。

『6(8)方向の連携連動をいかにスム-ズに行わせるか』、これに尽きると思います。

私自身思ったように痛みの軽減が出来ない時、ついつい患部に意識を持って行かれることがありました、しかしそこに気を取られれば取られるほど、本来の目的から逸脱してしまい、結果として患部の痛みにすら対応できないのです。

そんなことも繰り返しながら行き着いた結論が、6(8)方向の連動性を求めて行くことが、遠回りに感じても実は最も近道で正しい方向性であるということでした。

トレーニングの方では、もっと早い段階からその方向性は確認出来ていて、それが「体づくりから動きづくりへ」という、私のキャッチフレーズになっていました。

いきなりそれを「なるほどそういうことか」と納得してもらうことは難しいかもしれません、やはり目先の痛みを取ることに意識は向かうと思います。

しかし、それを変えて行く以外に、体を治すという本質に迫ることは出来ません。

老若男女、どんなレベルであっても、目標をここに置くということさえ出来れば、現状を超えて行くことは誰にでも可能なことです。

子供さんの運動能力を高めたい、すでに大人になった自分の運動コンプレックスを克服したい、どんな目的であれ考え方は同じです。

自分の中でここまで整理が出来たからには、できるだけ道具を使わず、いつでもどこでもできる6(8)方向への展開力を向上させることが出来る、体操というかトレーニングを考案し、誰にでも見て頂ける環境で発表出来たら良いなと思っています。

いつになるかはお約束できませんが、方向性は見えているので完成品でなくても、修正を加えながらのつもりなら私にも出来そうな気がします。

今の私には多くの方が抱えているような「もやもや感」はありません、シンプルに体に向き合うことが出来るようになりました。

皆さんが抱えるもやもやを吹き飛ばせるように発信を続けて行きます。

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私が私らしくあり続けるために。

思いつくままに色々なことを書いていますが、「ではあなたの言っている人間として与えられて能力とはいったいどういうもので、それを発揮できるようになるためにはどうやったらいいのですか」、読んでくださっている方すべてがそう思っていることは十分わかっています。

その能力がどういうものかについては、4年半に渡って真剣にブログを熟読してくれている読者の中には、「ちゃんと読めば分かるはずだ、その時々の西本さんの考えはすべて書かれているのだから」、と言ってくれる人もいるかもしれません。

しかし、現実としてそんな方はほんのわずかであることも分かっています。

また、ではどうすればその能力を発揮できるようになるのかについては、直接指導を受けてくれた人たちであっても、単発的な指導では、その人本人でさえも身に付けることは出来ておらず、指導に活かしてくれている人の中でも、きちんと伝えられているのか迷っている部分は多いと思います。

そんな中で改めて考えました、自分の思いだけを発信しているだけでは何も変わらないのではないかと。

日々様々な思いが交錯する中で、自分ならできるという思いと、これまでの固定概念を変えることが出来ないジレンマに悩まされ、自分の力の無さや、能力を発揮できる環境が与えられないことの無念さを感じることもあります。

しかしそれらすべてが今という現実であり、明日につながる今日であると考えたなら、私がやらなければならないことは過去を論じることではなく、明日のために今日何をするかということに尽きるのだという結論にしかならないように思います。

頭の中の整理の仕方を変えて、「どうすれば私の言う人間としてそれぞれが持って生まれた能力を発揮できるようにできるか」、私自身がもう一度整理する過程を、皆さんにもなぞっていただくことで、感覚を共有してもらうことが出来るかもしれないと考えました。

けっして安易にやり方を教えますというスタンスではありません。

何事も同じだと思いますが、「知識や方法論は誰かがおしえてくれるもの」、そんな甘い考えでは絶対に身に付くものではありません。

一つひとつ自分の体で試しながら、自分にとっての唯一無二の方法論を築き上げて行く以外に、本当の意味で正しいと言える結果に結びついていく方法はないのです。

今日も遠隔サポートの申し込みがありました。

まだ返事はしていませんが、真剣に取り組んでくれれば、希望されている目標に近づくためのお役に立てる相談内容だと思いますので、後程その旨のお返事を返すつもりです。

少し前には、操体法の感覚が分からないからという趣旨のサポートの申し込みがありましたが、こちらに対しては、さすがに遠隔サポートの限界を超えたものと判断してお断りしました。

いずれも私に対して大きな期待を持っていただいていることは間違いありません。

出来ることなら広島に行って、直接私の指導を受けたいと思ってくれている人は少なくないかもしれません。

そう思ってくれていたとしてもすべての人が行動を起こすわけではありません、よほどの大きな動機付けがないと人は行動を起こしませんから。

もちろんこうして、どんなに私が頑張って考えていることを文字に書き表したとしても、伝わる部分は少ないかもしれません。

ただそろそろそれをやっておかなければならない時期が来ているのかもしれないと思っています。

来年もし私が違う立場になっていたら、もし違う環境に置かれていたとしたら、私自身何も変わるわけではありませんが、自由な発信が出来なくなっていたかもしれません。

私には今のスタイルがあっているのかもしれません、誰に頼まれるのでもなく自由に自分の思いを発信し続ける、その中からお役に立つ部分があればしっかり読んで頂ければいい、それだけのことです。

勝手に悩み続けて時期は過ぎ、自分がやりたいことをやりたいようにやって行く、それが誰かの役に立っているのならこんな有難いことはない、これが今の私の結論です。

まずは週末の西本塾、良い意味で少し力の抜けた私が居るでしょうか、それともどこかでいつもの私に戻ってしまうでしょうか。

参加してくれる5人の皆さんと作り上げる西本塾、とても楽しみです。

テーマは整理されないまま、ランダムな内容になるとは思いますが、これからの夢と希望を持つ若い世代のために、私なりの体の説明書をのんびり書いていこうと思います。

人間それぞれに与えられた運動能力は平等それとも・・・。

私は年齢性別、現在の競技能力に関わらず、私の提唱している考え方を応用すれば、どんなレベルの選手であっても、さらなる能力の向上は可能だと思っています。

ここで改めて人間の能力について考えておかなければならないことがあります。

それは人間として持って生まれた能力は、すべての人に平等かという問題です。

端的に言ってしまえば、私の言うとおりに真剣に動きづくりを行ってもらえば、誰もが競技レベルにまで達することが出来るかということです。

私がこうして発信している内容は、おそらくはスポーツ、とくにサッカーに興味がある人が多く読んでくれているのではないかと思います。

もちろんサッカー以外のあらゆる競技に有効で、人間が人間の体を使って行う競技であれば、例外なく当てはまる理論であると思っています。

しかし、日本だけでも1億3千万人近くの人々が暮らし、世界の総人口は73億人(2016年時点)にも上るそうですが、そのすべての人たちが、私の提唱する体に関する考え方を必要としている訳がありません。

あくまでも、少しでもスポーツ動作を改善したい、スポーツ動作が原因となって起こってしまったであろう体の故障を改善したいという人たちが、何か役に立つことが書いてあるかもしれないと思ってくれているのだと思います。

もちろん私の発想の変遷の原点はまさにそこにあり、そこから様々な試行錯誤の中で辿り着いたものであることは間違いのないことです。

日本では少子高齢化が急速に進み、子供の数が大きく減少しています。

当然、スポーツに親しむ子供たちの数も減っているでしょう。

また労働力の機械化、どころかIT化というのでしょうか、一日中パソコンに向かって仕事をしている人も多くなっていると思います。

そういう人たちが目指している社会は、まるで人間が動物の一種であるという事実から離れ、できるだけ体を動かさないでも生きていける生活を推進しているように思えてなりません。

確かに高齢化とともに、そういう技術を必要とする人が増えて行くことは私にも想像できますが、それと反するように、高齢者の健康づくりにも目が向けられるようになっています。

話が広がりすぎましたが、今日テーマとしたかったのは、「運動神経が良いとか悪いとかは遺伝的先天的な要因が大きく、後天的な改善では、とても競技レベルにまで我が子が成長できるとは思えない」という考え方に対する私の意見です。

まさにその通りだと悲観的な結論を言ってしまうと、身も蓋もないのですが、そういう部分を否定はしません。

では子供の頃から運動神経が良いとか、足が速い子供と居ると言うのは、どういうことなのでしょうか。

あまり好きではない言い方にはなりますが、科学的には筋肉の繊維には「速筋」「遅筋」という分類があって、その割合こそ遺伝の要素が強く、後天的にはその比率を変えることが難しいことが知られています。

ならば当然、速筋繊維の割合が多い子供の方が、瞬発力に優れ足も速いということになります。

逆に遅筋繊維の割合が多ければ、持久力が高く長距離走では、速筋繊維優位の子供に勝つことが出来るかもしれません。

これらの例はあくまでも理屈の上でのことです、後天的な努力なくしてそれぞれの特徴を生かし向上させることは出来ません。

どちらが良いとか悪いということではなく、これは個人としての「個性」であるということにしかすぎません。

背が高い低い、靭帯の太さやしなやかさなど、後天的にはどうしようもないものはたくさんあります。

とくに子供の頃には、それら先天的な要因での優劣が付きやすく、それをもって運動の神経が良いとか悪いとかいうレッテルを張られてしまううことになってしまいます。

しかし、そのアドバンテージも、年齢とともに集団が大きくなっていくと、同じレベルの選手が普通に存在していることに気付き、身体能力だけで通用していたものが、そうならなくなってしまった時に、いわゆるドロップアウトしてしまう子供が出てきます。

「小さい頃から大きかった」、妙な日本語になりますが、いわゆる身体的に早熟な子供によくあるパターンです。

周りの大人たちからは、その大きな体故結果を求められ、個人競技であれ団体競技であれ、勝つために大きく貢献できることが当然であると、自他ともに思ってしまうことになります。

こうして育った子供が一度スポーツを離れてしまうと、もう一度頑張ってみようという気持ちにはなれないようです。

それはスポーツ競技の優劣を決める要素が、体の大きさと筋力の強さにあるという思いがあるからではないかと思います。

反対にそういう部分に恵まれなかった子供は、いわゆる技術の部分に活路を見出そうとします。

それでもある一定の年齢までは、大きさ強さには勝てず、今度はそれを理由にスポーツを離れてしまうことにつながってしまいます。

私自身まさにそうでした、「大きくなりたい強くなりたい、そうすれば選手としてもう少し違う人生があったかもしれない」、折に触れてそう思いました。

ここまで書いてきたような、どちらかの思いを持った子供さんや保護者の方がほとんどだと思います。

そしてその現実にどう対処したらよいのかという、一番切実な問題に対する問いに答えてくれる人は残念ながらいなかったと思います。

だから前回書いたように、どんぶり飯を何杯も食べさせて大きな体を作ることが、唯一の対応策のように思われてしまうのです、そういう部分は何十年たっても何ら変わっていません。

私は30年以上に渡って、人間の体に向き合ってきました。

その中で得られたというか気付きを得たのが、「人間本来の体の仕組みに沿った体の使い方を追及していく姿勢を崩さない」ということでした。

「体づくりではなく、動きづくり」という発想だったり、歯を食い縛り目を吊り上げ、屈筋を総動員して体中を力ませるのではなく、筋肉本来の仕事である、骨を動かすということを行ってくれている伸筋をしなやかに連動させることで、頭と体を動かし続けることが出来るという事実も発見できました。

それらの考え方を応用することで、誰でもどんなレベルの選手であっても、現状の能力を向上させることが出来ると確信しています。

ここで突きつけられるのが、今日のタイトルである「人間それぞれに与えられた運動能力は平等それとも」という問題です。

私の考え方に沿って努力すれば、誰でも頂点である競技レベルの選手に成り得るのかという問題です。

残念ながら答えは「イエス」とは言い切れません、しかし、「ノー」とは言いたくありません。

それは現在競技レベルにあると思われている選手たちが、彼らが持って生まれた能力を発揮しつくしているとは思えないからです。

ならば子供の頃からその部分に真剣に取り組み継続して行けば、ある一定のレベルまでは誰にでも到達できる可能性があるのではないか思うのです。

同じことが世界のトップレベルの選手たちにも見え隠れし、彼らが本来持って生まれた能力を活かしきれていない使い方をするシーンを目にすることで、「まだ間に合う彼らがそういう部分に気がつかないでいてくれるうちに、日本選手がきちんと身に付けて常に発揮できるようになることで、十分対抗できるのではないか」と考えています。

そのすべての発想の源は、人間も元はといえば四足で歩く動物であったという事実です。

それが二足歩行になったことで、失われたというか使われなくなった、骨盤と背骨を連動させることが出来るという能力、更には二足歩行の我々にしかできない背骨を6方向に動かすことが出来るという、まさにアドバンテージを活かすための動きづくりを行っていくことで、スポーツ選手のみならず、高齢化社会を健康に全うするカギになるのではとも思っています。

スポーツに興味がないと言う人はもちろんたくさんいると思います。

しかし、自分の体を自分の思ったように動かせるということがどれだけ幸せなことか、その能力を色々な要因で失った時、初めて感じられるものだと思います、そういう方々をたくさん目にしてきました。

ならば今から、スポーツに興味がないからと目を閉ざしてしまうことなく、その考え方に触れておくことは悪いことではないと思います。

私の考え方に興味を持ってくれた人が、縁ある方々にその輪を広げて欲しいと思います。


プロフィール

Author:西本 直
1993年、Jリーグサンフレッチェ広島を皮切りに、社会人野球三菱重工広島・協和発酵・ヴィッセル神戸・川崎フロンターレ、そして広島カープ佐々岡真司投手など、プロアマ問わず競技レベルのスポーツ選手から一般の方まで、トレーニングやメンテナンスの指導を行ってきました。
その経験と知識の蓄積を「西本理論」としてまとめ、一人でも多くの方に実践していただくことが、これからの私の使命であると信じ、このブログから発信していきます。
私の理論はスポーツ選手のみを対象としたものではなく、ビジネスマンや家庭の主婦まで老若男女すべてに当てはまる不変のものです。
指導や講演のご依頼も受け付けています。
実名でツイッターも書いていますので、チェックしてみてください。
また、2013年9月9日にConditioning Studio 操をオープンしました。
また、遠隔地にお住まいの方を対象とした動き分析とアドバイスを行っています。
詳細は「スタジオ操」のホームページ内の「遠隔サポート」をご覧ください。
「第25回西本塾」を11月18・19日の土日に開催を予定しています。
詳細はStudio操ホームページ内の「講習会情報」をご覧ください
尚、深める会も12月9・10日に予定しています。

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