体がかたい

今日のタイトル「体がかたい」です。

「かたい」という文字を平仮名にしたことには意味があります。
かたいという言葉は、人によってさまざまなイメージで受けとられることでしょう。

基本的には三種類の見方ができます。
まずは見た目の硬さです。
もの凄く筋肉質で岩のような体をしている人を見て、やわらかそうというイメージは湧きませんね。
反対にすごく痩せていてあばら骨が見えているような細身の体も、やわらかいとは感じません。

次は触った感触です。
もちろん骨はかたいですから、筋肉の部分を触ったときに、先ほどの見た目で感じたことがそのままだったり、逆に岩のような筋肉が意外にお餅のように柔らかい感触ということもあります。

そしてもう一つ、おそらく一般的に自分の体がかたいとかやわらかいと表現されているのは、この分け方だと思います。
それは関節の可動域、一般的な言い方をすると関節を曲げたり伸ばしたりする時の、柔軟性があるかないかということになります。

それともう一つ、体の一部分ではありますが、やはりその人の人間性を表す言葉として、頭が固いという言い方もあります。
直接体がかたいやわらかいということとは関係なさそうですが、頭がかたいイコール、既成概念にとらわれて柔軟な発想に乏しい、という考え方であるとするならば、これから説明するような考え方も受け入れてもらえず、結局は体のかたさも改善できないということになりかねませんので、あえて加えておきたいと思います。

この体のかたいやわらかいという概念、自分の体はやわらかいと自信を持って言える人は、割合で言うとどれくらいの数字になるのでしょう、おそらく一割にも満たない数字になるのではないでしょうか。

この概念は、子供の頃から行われてきた体力測定の種目の一つである、立位体前屈(最近は無理に前屈しようとして測定台から落ちてしまう危険性があるので、座位で行われることが多い)や伏臥上体反らしで、足先より何センチ下まで指先が下せたとか、床より何センチ顎を持ち上げられたいう数値で評価されます。

年齢別男女別の平均値から自分の数値が何点と、相対評価で点数を付けられますから、やっぱり自分はかたいんだとがっかりしてしまうわけです。

こういうテストをすると、普段特に運動もしていない人が高い数値を出すことがあります。
痩せているとか太っている(お腹が邪魔で前屈に支障があるくらいの肥満は別ですが)とかも、とくには関係ありません。

ではなぜそういうことが起こるのでしょう。
こうした関節の可動域を決める要因として、遺伝的先天的な体のつくりが最も大きな要素となります。

これまで説明してきたように、とくに大きな関節は骨と骨とを強い靭帯という組織で結合されています。
そしてその関節を動かすために様々な筋肉が関節をまたいで存在しています。

大きな関節を動かすためには大きな力が必要となりますから、当然筋肉も他の小さな関節に比べて太くて長い筋肉が必要となります。

筋肉は中央部の太い部分から、末端にかけて細く収束して強い腱という組織に移行します、ふくらはぎの筋肉が踵の骨に付いている部分はアキレス腱としてどなたにも分かりやすいですね。

その腱の末端の両端が、一つまたは二つの関節を挟んで骨に付着していることで、筋肉の収縮により骨が元の位置から可動範囲の中を近づいたり離れたりという運動がおこり、我々の体が動いているわけです。

ですから遺伝的に筋力を強く発揮できる体というのは、腱の部分が太く短く、筋肉が大きな力で収縮した時に骨を引っ張るという仕事に適した形態をしています。
その強い引張る力に対して、関節の間隔を一定に保つ仕事を担っているのが靭帯という組織ですから、こちらも短くて太い方がより強い力に対応できるということになります。

当然二つの組織が太く短いことで大きな力を発揮しやすく、さらにその力に対して安定的に働いて体を守ってくれるのですが、難点は骨と骨との間隔が狭いために、曲げ伸ばしをする可動域には少し制限が出てしまうことになります。

逆のパターンはすぐに想像がつくと思いますが、腱と靭帯の両方が細長くしなやかな組織(あくまでも比較の問題ですが)であるとするなら、当然その可動範囲は広くなるでしょう。

その代り、大きな強い筋肉の収縮に対しては負担は大きくなりますので、体の本能的なコントロールで、その組織に見合った力のコントロールが行われているはずです。

ですから、両者が数値上の比較でかたいやわらかいという優劣をつけることにあまり意味はないのです。

もちろん自分は逆のパターンだという方もあるでしょう。
どう見てもやせ形で筋肉もしなやかそうに見えるのに、まったく柔軟な体とは程遠いとか、立派な体格で筋力も強いが柔軟性に関しても非の打ちどころがない人もいると思います。

こういう方は、遺伝的先天的な体の構造はもちろんですが、太くて短いはずの組織に対して適度な負荷を与え続けることで、後天的に柔軟性を獲得出来たり、逆にまったく運動による働きかけがなされなかったために、せっかくの長所が生かせず柔軟性を失ってしまったということも考えられます。

努力はしたけれど、努力もしないのに、そういう方ももちろんあります、人間の体は教科書的にこういうものですと言い方ができない本当に神秘的な存在です。
だからこそ私のような人間が、少しばかりの知識で始めた仕事で、後は本当に目の前の人間の体を見ることによって得られた経験を積み上げて、今考えているようなことをお話するようなことにまでなったのですが。

男子の器械体操の選手のように、柔軟性と強い筋力の両方を兼ね備えていなければならない競技もあり、その体は我々からは想像もつかないレベルのはずです。

しかし彼らのトレーニングに、いわゆる筋トレというものは存在しません。
いくつもある種目の動きを習得していくことの過程そのものがトレーニングになっているのです。
素晴らしい筋肉の体をしていますが、彼らこそ体作りのためにトレーニングを行って作り上げた体ではなく、動き作りの延長線上で獲得した筋肉の成長だったはずです。

その努力は並外れたものだとは思いますが、そういう選手体でさえ、おそらくは遺伝的にはやわらかさの方を先に備えていて、強さが加えられたものと想像します。
まったく体がかたくてという子供が体操をはじめても、あのレベルまで行くものでしょうか、もしそういう選手がいたらそれはそれで凄いことだと思いますが。


次回は、今日の内容を読んで、自分の体がかたいのは遺伝なら仕方がない、努力も報われないことの方が多いのならやっても無駄と諦めてしまった方に、それでも西本理論、とくに3・5・7の考え方を応用すれば、いくつになっても改善の余地はあるんですよ、という希望を持っていただける方法をご紹介したいと思います。
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強く意識していること

トレーニングの内容に関して、初期の私のメニューにはこれと言って目新しい内容はなかったと思います。

基本となる何種目かのメニューを、できるだけマンツーマンに近い状態で指導するということだけは守っていたと思います。

いわゆる紙に書いたメニューであとは個人に任せますというやり方では、指導の意図が伝わらないと思ったからです。

そうは言いながら、チームを指導したくさんの人数を相手にしなければならなくなったとき、どうしてもそうならざるを得ない時もありました。
これはもう自分の中でも割り切るしかない部分ではありましたが。

ではなぜマンツーマンにこだわるのか、例えばベンチプレスという種目で80キロを10回3セットやってください、という指示をしたとします。

それを見た選手が、どういう動きでその重さと回数を扱っているか、そこを見るのが私の仕事なのです。

上下するスピード、動きがどこでどの程度止まってから動き出すとか、下していくときの深さ背骨の反らせ具合、1セット目から3セット目までの時間のかけ方や、それぞれのセット10回の中での疲れ具合、選手の表情や息遣いなどなど、言葉にすればきりがないほど見なければならないことはたくさんあります。

その中で最も重要なのが、こちらがどういう意識でこの重さこの回数を要求したのか、そしてそれがこちらに伝わってくるように確実に表現されたのか、結果としてお互いが意識を共有できたのかというところが最終的な目標となります。

単純に言えばベンチプレスという動作は、肘を伸ばした状態で支えているバーベルを、肘を曲げることで胸までおろし、そこからまた肘を伸ばして持ち上げていくという動作です。

これまで何度も言ってきたように、曲げる時には上腕二頭筋、伸ばす時には上腕三頭筋という単純な図式は、実際には成り立たないのです。

道具がなくてもその場で腕立て伏せをしてみてください、女性の方は膝をついたままでも結構です。

背中を真っ直ぐ保ち、肘を伸ばした腕で体を支えますね、その状態から、力こぶを作る上腕二頭筋だけを意識して、肘を曲げてみてください、あっという間に胸がと言うより顔面が床にぶつかりそうになります。
それを避けるために、無意識のうちに肘を曲げる意識が薄れて、肘を伸ばす上腕三頭筋でブレーキをかけることの方へ意識が転換されていることに気付くはずです。

一度で分からなければ、何度かやってみてください、三頭筋をブレーキに使わずにただ肘を曲げることがどれだけ難しいのかを実感してください。

そんなことまで考えて腕立て伏せをしたことがないと言われそうですね。
例えば同じ腕立て伏せと言っても、お尻をぴょこんと持ち上げて、体全体をくの字にして、両手の間に頭を突っ込むような形で行う人がいますが、これですと肘というよりも肩の前側の筋肉と、胸の上部の筋肉で重さを受け止めることになってしまい、肘の曲げ伸ばしという運動ではなくなってしまいますので今説明している感覚は掴めません、ここではあくまでも正しい方法で腕立て伏せを行うことを大前提としています。

いかがでしょうか、何度か行っているうちに結論として、腕立て伏せはそのほとんどの局面で働いてくれているのは上腕二頭筋ではなく、上腕三頭筋であることを納得していただけたでしょうか。

自分の思ったスピードで自分の思った深さまで上体をコントロースするために、三頭筋が肘を曲げるという運動に対してブレーキを少しずつかけて微調整しながら、結果として肘が曲がったという状態を作り出したのです。

ですから可動域の端っこ近くまで動いて、もうこれ以上は曲がりません、胸がついてしまいますという状態のときの肘は、実は三頭筋がこれから肘を伸ばして体を持ち上げていく準備が完了してその指令を待っている、という状態と考える方が自然なのです。

たかが腕立て伏せにどうしてここまで小理屈が必要なんだと思われるでしょうが、このイメージが分からないとほかの動作を説明するとき、まったく意味不明なまま話を進めていかなければならないのです。

曲げ伸ばしの例で言えば、野球の選手がバットを持って構えているとき肘は曲がっていますね、ではこの時曲げている、すなわち二頭筋の力で肘を曲げる方向に筋力を働かせているとしたら、今度はボールが投手から投げられてこちらに飛んできたときに、一度曲げるという脳からの指令を解除して、改めて肘を伸ばす筋肉に働いてもらわなければならないことになります。

構えているときに力んでいるという状態は、この屈筋である上腕二頭筋が主体となって、肘を曲げバットを構えてボールを待っていることを指します。

逆に、肘が曲がっていることをいつでも上腕三頭筋が、肘を伸ばす準備万端で待っている状態だとしたら、ボールに対してスムーズにバットが出てくるということにはならないでしょうか。

これはただの理屈ではありません、筋肉の仕組みや働きから考えればまぎれもない事実です。

そういうことを考えながらのベンチプレスであったり、スクワットでなければ、何キロ上がった何回出来たのトレーニングから抜け出ることはできないのです。

そういう意識のトレーニングの積み重ねが、競技動作の向上に直結していくのです。

理屈はいいから力を出し切れ、もっといけるさあもう一回のトレーニングとは目的が違うのです。

私の好きなゴルフでも同じです、トップの位置にあるとき肘は曲がっています。
アドレスの位置で伸びている両肘を曲げようとして動き出した結果、トップの位置でシャフトを支えるように曲がっているというのと、トップの位置からボールを打ちに行くためには肘が伸びていかなければならないのですから、伸びていた肘をもう一度伸ばすという状態に戻すための準備として、トップの位置に来た時には結果としてま曲がっているという意識では、まったく逆の運動になるのです。

体も大きく、私などよりどう見ても腕っ節の強そうな方が、力いっぱい叩いても意外にそれほど飛んでいないというシーンを何度も見ました。

まさに今日説明したことの証です。

伸ばさなければならない時に、まだ曲げる筋肉が出しゃばって邪魔をしているのです、こういう状態を「力んでいる」というのです。

まるでブレーキを踏みながらアクセル全開で車を走らせようとしているのと同じです、車は壊れてしまいます、だから体も悲鳴を上げて壊れてしまうのです。

出来るだけブレーキをかけずに、滑らかに関節の伸展運動を連動させていく、これが理想の動きです。

そのためのトレーニングでなければならないのです。

今日の内容は今まで書いてきた中で、私の中でも一番深い内容だと思います、何度も読んで理解してください。

まだコメントというか質問がありませんが、私が「そこを聞いてきたか」と膝を叩いて答えたくなるような質問をお待ちしています。

痛みをどうとらえるか

高校生の指導から、一足飛びにプロサッカー選手を相手にすることになりました。
ちょうど20年前、Jリーグが誕生するまさにその時でした。

サッカーもプロという組織も、まったく知らない初心者でしたが、私に求められていることは明確でしたので特に戸惑うことはありませんでしたが、一から十まで新鮮な出来事ばかりでした。

ビブスだコーンだマーカー持ってこいと、当たり前のように言われても、さっぱり何のことか分からず、怪訝な顔をされる相手に、知らない人間もいるんだからちゃんと説明しろと逆切れしたこともあったぐらいです。

そんな私でしたが、チームにフィジカルコーチというトレーニングの専門職がいなかったため、体のケアをしていく中で、この選手にはこういうトレーニングが必要だと感じた時には、直接指導をするようになっていきました。

今でこそ室内の筋力トレーニングも当たり前になってきましたが、当時はまだまだ普及しておらず、ケガをした後のリハビリとしてのトレーニングや、雨が降り続いたときの補強運動程度の認識だったように思います。

そんな中で、チームの主将で名実ともに中心選手だった(あえてここでは名前を出しませんが)ある選手が、膝に大きな故障を抱え、プレーを続けながら完治させるのは不可能な状態で、それでも何とかチームのためにプレーを続けたいという彼の強い気持ちと、なんとかしてプレーをさせてあげたいという私の思いが重なって、奇跡的ともいえる状況で彼がピッチに立ち続けたことで、若手の選手たちも二人がどんなことをやっているんだろうと、興味を示してくれるようになりました。

膝に限らず、関節には適度なゆるみというか隙間があって、そのおかげで曲げたり伸ばしたりすることができたり、着地した時の衝撃を和らげてくれたりもしてくれます。

膝の関節は上下の骨が靭帯という組織で結合されていて、筋肉の収縮でその隙間が広げられたり狭められても、一定の間隔を維持して骨と骨とがぶつからないように調整してくれています。

膝のケガというのは、生理的な可動域を超えてしまうほどのストレスがかかってしまい、靭帯が耐え切れなくなって損傷してしまったり、付着している部分が剥がれてしまったり、骨と骨とが直接接触しないようにクッションの役目を果たしている半月板という組織が損傷したり、さらには半月板を通り越して骨自体の表面が傷ついてしまったりと、様々な病態があります。

その一つ一つの病態を完全な形で元に戻すのは不可能に近いことです。

ましてや原因を作ったサッカーというスポーツ動作を、プロのそれも一流選手としてのレベルを保ちながら回復させようというのですから、生半可な意識ではできることではありません。

しかし、彼はそれを見事に克服してピッチに立ち続けました。
私のことを評価していただくこともありましたが、やるのは私ではありません、彼の取り組む姿勢と痛みに立ち向かう覚悟は見事なものでした。

痛みというのは、自分を守るために絶対に必要な感覚で、たとえば間違って画びょうを踏んでしまい痛い思いをした人は、二度と踏まないように気を付けて歩きます。

同じ場所を歩くとき、足元が暗かったりすると、画びょうなどないと分かっていても歩き方がおかしくなって、ちょっとした突起物に対しても大きなリアクションを取ったりします。

あの痛みを二度と味わいたくないという心理が働くからです。
そうやって体を守ってくれます。

人間の痛みに対する感覚というのは、個人差がとても大きなものだと思います。

いつまでも痛みを忘れず、歩くことさえ恐れていては、自分本来の歩き方すら忘れてしまい、そのことが原因でバランスを崩し腰痛を発症するなどという例もあります。

痛みに対しては、その原因をできるだけ明確にして、この痛みは完全になくすることができるもので、なくなるまで動かない方が良いのか、それともある程度の痛みは許容範囲と認めて、一定のレベルまで落ち着いたら痛くても動くという選択をするのか、特にスポーツ選手には大きな決断が必要になってきます。

彼は後者を選びました。
そのための方法論として私が提案したことの一つが、膝の関節を支える筋肉を強化して、関節面ができるだけ接触しない状態を作ろう、極端に言えば膝に鎧を着せてしまおうということでした。

我々でもそうですが、ゆっくり歩いているときには筋肉の収縮がそれほど強くありませんから、体重に比例して膝の関節にかかる負担は大きくなります。

しかし、全力で走るという局面になると膝に関係するすべての筋肉は最大限に収縮しますので、膝の関節には一定の隙間ができることになります、私の狙いはそこにありました。

正しい隙間を作るためには、膝の運動を正しい角度で行わなければなりません。
トレーニング自体の角度調整が間違っていれば、そのこと自体で関節面に負担をかけてしまうことになります。
正確な角度と可動域、そして全力プレーを支えるための今までに経験したことのない大きな負荷、それらに彼は立ち向かってくれました。

練習の直前や、練習中にも私の徒手抵抗で筋肉が緩まないように刺激を入れて準備をする、練習後はいったんアイシングで炎症を抑え、場所を移動し器具を使ってトレーニング、そのあと鎧を脱がせ筋肉を休ませるためのケアをするいう毎日です。

そして試合当日も、徒手抵抗の刺激から始まり、ハーフタイムには力を緩めると痛みが走る彼を抱えてロッカーに戻り、後半への準備、試合が終わればまたケアと、休む間もなく彼の膝と向き合っていました。

治癒という言葉があります。

癒し治めると書きます、けっして治るとは書いていません。

痛みがあるから治っていない、痛みがあるから動けない、それも一つの考え方でしょう。

今はMRIという画像診断が手軽にできるようになり、小さな肉離れでも部位や範囲が特定できます。

ですから画像上に判断できる材料があれば、それぞれ病名がつく診断がされてしまうのです。
当然、それが消えてなくなったときが治癒であり、運動に対するGOサインということが素人目にも納得できる判断材料になっています。

本当にそうなのでしょうか、骨が折れましたレントゲン写真にもくっきり骨折線が見えています、当然無理はさせられません。
ではその線もきれいに消えて、骨としては完全に元に戻りましたという選手がトレーニングを再開しても、一向に元のパフォーマンスが発揮できないという例がたくさんあります。

肉離れでも同じような例はたくさんあります。
これ以上は具体例を出さなければならず問題がありますので書けませんが、痛いから動かしてはいけないではなく、ここが微妙な言い方になるのですが、ここまで動かすと痛いけれども、ここまでだったら動かしておいた方が後々のために必要だと、私は判断してリハビリに取り組んできました。
納得できる結果も残してきたつもりです。

彼のような例は少ないかもしれません、そこにはお互いの信頼関係というものが大前提にあったことは間違いありません。

それはきれいごとではなく、日々の積み重ねであったことは間違いありません、ぶつかりあうことがありながらも、試合に出続けたいという彼の思いと、それを実現させたいという私の気持ちが一つになった結果だと思います。

今後ますます医療もトレーナースタッフの仕事もシステム化されて、私のように感覚でものをいう人間は使いにくくなっているのかもしれません。

一日一日生活をかけてスポーツを職業として行っている選手たちに対して、誰にでもわかる一般論的な対応で良しとするなら、もう私のような人間は必要とされないし、同じような考え方をする人間は二度と出てこないかもしれません。

それが良いことなのかどうかは、私が判断することではありませんが。

そういう進んだ医療の中にこそ、私のような感性感覚を大切にする人間がいてもいいともうのですが、いかがでしょうか。

走ることの意味

つくばでの三日間、色々なことを経験させていただきました。

メインは二日目の「少年期におけるトレーニングとコンディショニング」と題した講習会だったのですが、三日目日曜日の夕方から「オトナウム」という名前の、普段あまり体を動かすことのないお父さん方にもサッカーを楽しんでいただこうという趣旨の集まりがありました。

そこに何と前日前々日とお会いしていた、お母さんとお嬢さんそして男の子の三人が来てくれました。
お嬢さんは他に大切な用事があったようですが、もう一日でも私との時間を過ごすことで得られるものがあるのではと思っていただいたようで、わざわざ来ていただいたとのことでした。

私の方が驚くやら恐縮するやら、期待に応えるべく何かをしなくてはと考えました。

ちょうどもう一人、オトナウムに参加していたお父さんに連れられてきていた男の子と、筑波大学蹴球部の学生トレーナー君の4人を相手に、走り方教室をやろうということになりました。

私は、ウォーキング教室やジョギング教室などで指導されている方法に違和感を覚えています。

もともと歩くという行為は移動の手段でしかなかったはずです。
乗り物も何もない時代に、目的地に移動する手段としてみんな歩いていたはずです。

今ブームになっているウォーキングは、どこかに行くための移動手段ではなく、カロリーを消費し筋肉を刺激して、運動不足を解消しダイエット効果を得ようという、昔の人たちから見ればまったく意味不明な動機で行われています。

当然その歩き方は、歩幅を広く大股で歩けとか、軽く肘を曲げて腕をしっかり振ってとか、出来る限り早いスピードでという感じで指導されます。
早朝や夜涼しくなってから、たくさんの方がそうやってウォーキングしている姿を見かけます。

歩くことと走ることの違いは、一瞬でも両足が空中に浮いている状態があれば、走っているということになります。

腰をひねりながらすごいスピードで歩く「競歩」という競技は、審判がその足の動きをチェックしていて、何回か両足が浮いて走っていると指摘を受けると失格になります。

我々が歩くことから走ることに移行するスピードは、もちろん個人差はありますが時速7キロを超えると、速足で歩くよりも両足を浮かせて、つまり飛んで走ることが楽になりますが、競歩の選手はもっともっと早いスピードで、飛ばないで歩くことができます。

我々日本人はもともと着物の文化で、裾を広げて大股に歩くということはできませんし、移動するという時には何かを持って運ぶという目的もあるでしょうから、両手を大きく振ってということもしなかったはずです。

今ならすぐに車に乗ったり電車やバスを利用する距離を、平気で歩きとおすためには無駄にエネルギーを消費しないことが最も大切だったはずです。

走るという行為は、歩いて目的地に到達する時間を少しでも短縮するための行為のはずです。
ですから歩くことと同じで、出来るだけ無駄なエネルギー消費をしない走り方を考えたはずです。

それが数年前から話題になった「なんば走り」と言われるような体の使い方だったのかもしれません。
「なんば走り」については関連本がたくさん出ていますので読んでいただきたいと思いますが、単純に右手と右足同側を出して歩くというものではありません。

一言で言ってしまうと、腕は振ろうとも思っていないし、振らないようにしようとも思っていないということになります。

例えば神社の石段を大急ぎで駆け下りようとする姿を想像してみてください。
肘を何度に曲げてしっかり前後に振ってとか腿を高く上げて、みたいなイメージにはならないはずです。

石段の角の部分を踏み外さないように、出来るだけ小さな足の運びで下っていくスピードに対応しなければなりません。
当然腕もそのスピードを邪魔しないように、体のバランスを取っているだけで、腕を振っているという感じもないと思います。

下りの石段という特殊な条件とはいえ、早く走るための条件は一般的に指導されているそれとは明らかに違います。

平地を走るときにもそれが応用できないでしょうか、腕を振れ腿を上げろしかアドバイスの言葉はないのでしょうか。

その答えとして考え付いたのが、私が4人を相手に指導したやり方なのです。

実技の説明は文字にすることが難しいのですが、股関節と肩甲骨を含めた肩関節をローリングさせるという使い方です。

腕を前後に振る、腿を上下にピストン運動させるというイメージだと、関節の可動域に対して限度いっぱいまで使うことになりますから、そのこと自体にかなりのパワーを必要とします。

それをまた逆方向に向かって戻していくのですから、私の3・5・7理論で説明しても、かなりのパワーを必要とし、なおかつそのパワーが前に進むことに対してロスになっているどころか、ブレーキになっている角度まで存在します。

ならばこういう考え方はどうでしょう。
関節に対して常に円運動をさせる、車のエンジンに例えるとマツダのロータリーエンジンのイメージです。

常に前に進むという目的に対して、ロスが少なくパワーをかけ続けることができます。
さらに可動域の端っこまで使わないところで関節の運動が連動していきますので、地面に対してもドンドンという衝撃インパクトも少なく、筋肉や関節に対するダメージも少ないという良いことづくめの体の使い方です。

スピードに乗るまでは、腕は肘を柔らかくしておけば上下に自然に振れて、スピードに乗ってくれば自然に前後に振れているように見えますが、私の中ではそもそも腕を使うという感覚すらありません。

足が体を運んで行ってくれていることの邪魔をさせないように、ブレーキにならないようにぶら下げているだけです。

イメージが湧きにくいとは思いますが、もうすぐ55歳になる私の年齢からすれば、走るスピードという意味でもそれなりに速いと思っていただけるスピードではあると思っています。

大学生の彼はなかなか素直に体が反応してくれませんでしたが、男の子二人はあっという間に感覚をつかみ、楽しそうに走ってくれました。
女の子も、最初はうまくいきませんでしたが、最後の時間でマンツーマンの指導ができたので、こちらも見事に私が求めている動きを体現してくれました。

前日の講習会の終了近く、あるお父さんがこう言われました、「私たちがこれまで正しいと思ってやってきたことと、今日の話はほとんどが正反対のことばかりでしたが、西本さんの言われていることが正しいのはよく分かりました、ではなぜこういう考え方が広まっていかないのでしょうか」結局そこなのです。

人と同じことを言っていれば、それが現時点においてセオリーとして確立されていることなら、結果に対して教える側に何の責任もないのです。
こういうことは世の中にたくさんあります。

でもそれではおかしいと気付いたとき、私のような発想になる人がいないことのほうが、私には不思議なのです。

機会をいただければ、歩く走るという人間の本質的な運動について、一緒に学んでいただきたいと思います。

名前は出せませんが、可愛い名前のお嬢さんと、カッコいい名前の男の子、そしてお母さん、三日間ありがとうございました。

最後に、講習会に参加していただいた方から非公開ですがコメントをいただきました。
なんと外科のドクターをされている方で、私の話を真剣に聞いていただき参考になったと、お褒めの言葉をいただきました。さらに本も買っていただけるそうです。
どんな立場の方でも、素直に心を開き自分にとって有益であると思ったことは実践していくべきではないでしょうか。
そういう意味でも、本当にありがたい言葉をいただきました、ありがとうございました。

はじめの一歩

このブログを始めた一番の理由である、一人でも多くの人に私の経験と知識を伝えていきたいという思いを、実現させていくための手段として、どうしてもやりたいと思っていた講習会を昨日はじめて実現しました。

茨城県のつくば市にある「トラウムトレーニング」という名前のサッカースクールで、30人ほどの人たちにお集まり頂き、1時間半の予定が質疑応答が延々と続き1時間以上オーバーしてしまいました。

私はこの20数年間、終始一貫同じスタンスで考え方を発信してきました。
こういう形でスポーツをしているお子さんを持つ保護者の方々から投げ掛けられる質問の内容は、昔も今もまったく同じなのです。

スポーツ医学の分野も、昔とは比較にならないくらい進歩し、スポーツトレーナーと呼ばれる職種も、広く知られるようになってきました。

そういう意味では困っている人は、間違いなく減っているはずです。
では昨日集まっていただいた方々は、その恩恵を受けられなかった少数派の人たちだったのでしょうか。

けっしてそうは思いません、皆さんそれぞれ子供さんのために、あっちの病院こっちの病院と駆けずり回り、その他良いと言われるところには、時間もお金もいとわず頑張ってきたと思うのです。

それなのに信頼に値する対処方法に出会えていないからこそ、私のような人間の話も聞いてみようと思って頂いたと思うのです。

知識を持っている人間は確実に増えました。
でもその知識は今の時代その気になれば、ネットを通じて誰でも知ることができる知識に過ぎないのです。

我々はそれらの知識を基礎として、目の前の人間の体と心に真っ正面から失敗を恐れずに向き合っていくことではないでしょうか。

教科書で学んだ知識の中で答えを導き出せば、後々問題が起こった時の責任という意味では問われることもないかもしれません。
そんな対応が、昔も今も同じ悩みを持つ人を減らすことができない現実に結びついていると思うのです。

命に関わる再生医療や移植医療、逆に美容や形成外科などの分野には、人材もお金も流れていきます。

ではスポーツが大好きで、元気良く走り回りたい子供たちには、おざなりの説明で、しばらくはスポーツ活動を休んで様子を見てください、という対応で良いのでしょうか。

私にできることは、そういう子供たちと保護者の方々の立場に立って、一日も早く笑顔で元気良く走り回ってもらうお手伝いをすることしかないのですが。

子供たちだけではありません、老若男女さまざまな方々に伝えなけれならないことがたくさんあります。

そのために、このブログからしっかり私の思いを発信し続け、直接お伝えできる機会を増やしていかなければならないと思います。

指導対象が変わっても

高校生、それも女子チームが私のトレーニング指導のスタートとなりました。

そのあとを追いかけるように男子の野球部員、そしてそのことを噂に聞いた全国屈指の野球名門校である、松山商業の監督さんからも声をかけていただき、一施術者として故郷宇和島で開業した私の運命は大きく舵を切られていきました。

私が愛媛の野球小僧だった時代には、松山商業というのは特別な存在で、同じ町から松山へ進学する人もいましたが、その人たちは特別中の特別で、私も憧れこそしましたが実際に進路として選択するには敷居が高すぎる存在でした。

その松山商業の監督さんから、どこでどう調べていただいたのか、治療院を開いていた場所の目の前にあった実家に電話がありました。
ちょうどお昼時で、たまたま私もその場にいたのですが、電話を取った野球好きの父が、「松山商業の澤田監督と名乗っているが、お前知り合いか」と、怪訝そうな顔で取り次いでくれたことを今でもはっきり覚えています。

初めてお会いした澤田監督は、想像をはるかに超える、どう表現すればいいのでしょう、この人のためにお役にたてるのならと思わずにはいられない、熱い方でした。

その1年後に、広島に来てしまったため、指導は約1年間だけになってしまいましたが、そこでまいた種が思いのほか早く花を咲かせてくれ、4年後の平成8年には夏の甲子園大会で、あの有名な奇跡のバックホームという劇的なプレーで、全国制覇の偉業を達成されました。

私が指導させていただいた頃は、グランドには一種の殺気が漂い、たぶん今からは想像もつかない雰囲気の中で練習が行われていました。
正直、自分が選手としてこのグランドに立たなくてよかったと思いました。
私にはとてもついていける練習ではありませんでしたから。

そして日も暮れて、いつになったら私の指導が始められて、というよりも帰りの最終のJRに間に合うのだろうかと心配するほどでした。

当然選手たちもグランドの練習で疲れ果てているはずなのですが、彼らは一人として手を抜くことなくトレーニングに取り組んでくれました。

ベンチプレスとスクワットに関しては、自分の扱える最高重量と回数を記入してもらって、その数字を基準に他のメニューを決める参考にしていたのですが、自分がライバル視している選手どおしが数字を競い合って、いつまでたってもトレーニングをやめようとしないのです。

それが下級生であろうと上級生であろうと、私の手元にある記録票を見て、負けていれば報告せずにまた戻って重さを増やすということを延々繰り返すのです。

ただの負けず嫌いではありません、彼らは常に本気で戦っていました。

後にも先にもそんな気構えで迫ってくる選手たちを指導したのは、間違いなくあの頃の松山商業野球部だけだったと思います。

その後、縁あって広島に渡り、サンフレッチェ広島のトレーナーとして仕事をすることになりました。

サッカーは冬場の体育の時間に、ちょっとだけボールを蹴ったことがあるというレベルの人間だったので、環境というか雰囲気に違和感はありましたが、自分の力を生かせるのならと思い切ってオファーを受けました。

この後出てくる、私の施術者としての操体法をベースにした、いわゆる治療やコンディショニングが主な仕事だったのですが、すぐに気になったのはサッカーはこういうトレーニングをして、こういうケアを受けていますという既成概念というか、まあそれが当たり前だったのでしょうが、サッカー未経験でこういう仕事についた私の目から見ると、これは違うだろうという部分が色々と目についてきたのです。

痛いところができたから治してくれ、今日はとても練習がきつかったから体をほぐしてくれ、それはそれで間違いではないし、それが仕事だろと言われればそれまでなのですが、一歩進んで、ではこんなトレーニングを行っておけば、こういうところは痛くならなくて済むんじゃないのとか、この部分が使えていないから、こういう練習の時他の人よりしんどいんじゃないの、という私に言わせれば単純で素朴な疑問が湧いてきました。

どこも痛くありません、練習が終わってももっともっと練習したいです、なんていう選手はそういるものではありません。

それぞれ故障を抱え、痛みと付き合いながらサッカー選手を職業として、毎日グランドで戦っているのです。

それは単に試合で戦うという意味ではありません、チーム内での熾烈なポジション争いはそのまま自分の収入に直結します、生活が懸かっているのです。

私はそういう選手たちをピッチに立たせるために、精一杯の努力をしてきたつもりです。

時には厳しい言葉も使いましたが、すべては選手のためだと思って発した言葉です、それは今でも変わりません。

トレーニングの指導をしていて残念だったことは、「筋トレをしてシュートが入るんだったらいくらでもやるんだけどな」という、ある選手の一言でした。

野球のように、力が付けばボールが遠くに飛んでというような、目に見える効果はサッカーでは見せずらいのは確かです。
しかし、何度も言ってきた体作りではない動き作りのためのトレーニングは、サッカーのような競技にこそ必要なのです。

今年、短い期間でしたが指導させていただいたチームの選手で、そのことをしっかり意識してトレーニングを継続してくれて、私から見ても明らかに動きの質が良くなった選手がいます。
当然のように試合でも結果を残してくれるようになりました。

あるマスコミの方からインタビューを受けた時、「あなたは自分の仕事に対して褒められても嬉しくないだろうし、けなされても気にならないでしょう」と言われたことがありました。

その方自身は長い記者生活で、見る目はお持ちのはずなのですが、あえて私の仕事の専門性を理解して、こういう言い方をされたのだと思います。
初めての経験でしたが、私のほうがこの方から色々なお話を聞かせていただく機会を作れないものかとお願いしてしまいました。

残念ながら実現しないままにこうなってしまいましたが、いつかどこかでお会いできないものでしょうか。

ただの思い出話のようになってしまいましたが、今日言いたかったことは、女子であろうと男子であろうと、中学生であろうとプロ選手であろうと、本気で取り組めば必ず結果はついてくるということです。

中途半端な気持ちで、与えられたメニューをこなすだけのトレーニングは、グランドレベルでも室内のトレーニングでも自分を成長させることは絶対にできません、そんなに甘い世界ではありませんから。

こちらばかりが必死になっても、うまくいかないことだらけです、お互いが理解して作り上げていかなければなりません。

まだまだ力不足を痛感させられました。

基本的なメニューでも

体のことに興味を持ち、自分の体を実験台にしながら試行錯誤でトレーニングの効果について実証してきました。

私の指導の基本というかポリシーは、自分がやってみて効果を確認できたものを、目の前でやって見せるということでした。
それができなくなったら、この仕事はやめようとまで思っていました。

もうすぐ55歳ですが、ついこの間までグランドレベルでの走り方や身のこなしも、こういう意識でこうやって使うと、ほらねこうなるでしょという感じで、言葉の説明だけではなく実際に目の前でお手本を見せながら、選手にやってもらうという指導方法を取っていました。

競技レベルの、ましてや親子ほどに歳の離れた選手たちに求めている動きを、この年齢になってやって見せるというのは正直大変なことではありますが、逆に言えば、私でもできるのですから、君たちができないはずがないでしょ、とプレッシャーをかけているところもあります。

そこにはたんなる筋力や柔軟性という、年齢とともに衰える要素はあったとしても、体の使い方という意味できちんと理解し継続してくれれば、私でもできるんだから、君たちのようなレベルの選手たちにとっては、できて当たり前のことなんだよというメッセージが含まれているのです。

5年くらい前までは、お手本を見せるにとどまらず、選手と一緒に汗を流しトレーニングをしていました。

器具を使うトレーニングも同じです。

私ができるレベルを一日でも早く超えてほしい、私は普通の一般人にすぎないのだから、私を超えてくれなければ競技レベルの選手とは認めないよ、とできない選手にははっぱをかけていました。

そのための努力は日々頑張ってきましたが、だんだん辛くなってきたことは認めざるを得ません。

我々は生まれてから1年くらいすると立って歩けるようになります。
誰かに歩き方を教えられたわけではありませんが、ちゃんと歩けるようになります。

そのあとも必要に応じて様々な動きを習得していきますが、日常生活に必要なレベルであれば、特別や指導を受けたり訓練をしなくても、それなりにできるようになります、3・5・7理論の1の間の収縮のみで。

しかし、他者との優劣を競うスポーツの動作に関しては、それぞれの競技動作を習得していくことのほかに、人間に本来備わっている能力を、できる限り余すことなく発揮し、さらにその動作にスピードやパワーを加えていく、いわゆるベースとなる基礎体力を向上させることが、そのまま競技動作の向上に結び付くという事実があります。

32歳で独立しこの仕事を始め、最初にトレーニングの指導を、仕事としてやらせていただいたのは、愛媛県の大洲市にある私立の「帝京第五高校の女子バスケットチーム」でした。

当時のヘッドコーチをされていた方から、ウエイトトレーニングには興味があるが、自分では経験がないので指導をしてもらえないかというお話をいただき、私も初めての経験でしたので、試行錯誤しながら一緒に指導をさせていただきました。

この最初の一歩がなければ、今の私はありません、魚本コーチには本当に感謝しています。

まだ自分の中での理論は今のように確立されていませんでしたが、任された選手たちを、とにかくケガをさせないように正確な動作を意識して、まずはトレーニングとはこういうものだよという感じの内容だったと思います。

週に一度か二週間に一度、学校に伺ってというペースだったと思いますが、生徒たちが私が行かない時にも熱心に取り組んでくれたおかげで短期間で効果が表れ、他校からあの学校は何を始めたんだと、恐れられたという話を聞きました。

25年くらい前の話で、今のように筋力トレーニングが一般的ではなく、ましてや女子のチームということで、いわゆる腹筋や腕立て伏せを、補強運動と称して行うことが関の山だった時代ですから、選手も私も初心者だったとはいえ、きちんと継続したことで想像以上の効果をもたらしてくれました。

最初に私が選手の前に現れた時は、まだ痩せていて見た目に威圧感はありませんが、見た目よりは力があるなという程度で、実技よりも説明が上手なやさしいお兄さんという風に思われたかもしれません。

選手たちも、何をやらせられるんだろうとやはり不安そうでしたが、回数を重ねるうちにトレーニングの楽しさが分かってくれたようで、こちらも通うのが楽しくなりました。

そのうち、同じ高校の硬式野球部の選手たちが、雨の日など同じ体育館でトレーニングをするとき、女子がこんなことをやっているのかと興味津々で、自然に野球部も指導するようになっていきました。

このブログでもすでに書きましたが、この年代はまだ成長期ですので、負担をかけすぎずにうまく指導ができれば、言葉は悪いですが、やったもの勝ちという感じです。

入学してから高校3年生の夏まで、実質2年と少しの間になりますが、トレーニングを行わなかった選手との差は歴然となります。

それも本当に基本的なところだけをしっかり押さえるだけでいいのです、やらない手はないと思います。

しかし、この時期に今私が考えている理論に基づいたトレーニングを行ってくれれば、次のステップに進んだ時にこそ本当にその効果を実感できるようになると思います。

実際に、高卒大卒にかかわらず、私が指導を受け持ったチームは、まったく一からの指導をしなければなりませんでした。

一つ手前の段階でこういうことをやってきてくれれば、現場の指導者は本当に助かるでしょう。
とはいってもその理論を知っている指導者はほとんどいないのですが・・・。

こうして発信していることが、いつか心ある人たちの目に留まり、ジュニアの育成に私の理論がお役に立てるといいのですが。

don'tsink-feel

don'tsink-feel
我々世代の男性ならすぐにピンとくると思います。

映画燃えよドラゴンで、主人公のブルース・リーが若い弟子と手合わせをした際に発した有名な言葉です。

私は物事を突き詰めて考えてしまうタイプで、ほどほどとかまあまあというあいまいな言い方が好きではありません。
誰かに聞いたとか、みんなそう言ってるみたいな言い方も嫌いで、すぐに真実を調べてしまうタイプです。

とくに仕事で選手や一般の方を対象にして、何かをテーマにお話したり説明するときには、なんとか自分の意図を分かってほしいと懸命に言葉を連ねる努力をしてきました。

それが私の仕事であり、相手のためだと信じて疑わなかったからです。

しかしその言葉も、時として相手に響かないことがありましたが、いつかこの話が必ず役に立つ時が来ると信じて疑いませんでした。

伝わらないのは自分の説明の仕方が悪い、どうすれば分かってくれるのだろ、そう思い続けてきました。

このブログもそうです。

私の思いを伝えなければ、私の経験や知識を共有してもらうことができれば、たくさんの人のお役にたてる、そう思って当初のタイトルも付けました「職人トレーナーが世に問う・・・」、いかにも押しつけがましいですね、おれの言うことが正しいんだ、みたいな。

でも少し肩の力を抜いてみようと思いました。

世の中不思議なもので、こういうブログの内容も必要としている人の目には時間はかかっても、不思議と見に入るようになるのです。

今までの私もそうでした、アンテナを張り巡らせている人のところには、必ず電波は届くのです。

反対に何の興味も持っていない人が、たまたま目にしてくれたとしても、意識の片隅にも残らないでしょう。

スカパーが無料放送をして視聴者を増やそうとしなくても、本当に必要としている人はお金を払ってちゃんと見てくれます、でもそういう努力は必要で、私はその自分を売り込むということが下手なのですが・・・。

マンツーマンで指導しても、こちらの思いがどこまで伝わったのか、それが複数になり30人、50人と増えていったとき、私が力めば力むほど相手の心に響かない部分が出てきていたのではないか、そんなことも考えるようになりました。

勝負の世界で生きていると、どうしても結果が欲しくなります、選手だけではありません、私の立場でも同じです、私の仕事の評価も、勝ち負けで下されてしまいます。

選手のためにと思ってやってきたことが、実は自分のためだったのではないか、今となってはそんなことも少し思ったりしています。

心に響く言葉、相手が素直に受け止めてくれる言葉、難しいですね。

これが正しい理論だ、過去の選手たちもみんなこうやって私の言うことを聞いて結果を残してきたんだと、自信を持って知識や経験を話すだけでは、もう相手の心に入ってはいけないのですね。

ブルース・リーの言葉は、弟子に対しての「考えるな、感じろ」ですが、私自身がその場の空気をしっかり感じて、相手をねじ伏せるような言葉ではなく、うまく言えませんが、過去がどうだった、誰はどうだったではなく、目の前の人間と、一期一会の新しい何かを作り上げる工夫をしなければならないと思い始めた今日この頃です。

体作りから動き作りへ

体や筋肉の仕組みを、自分なりに分析しながら、まずは自分の体で実践してみようと思いました。

すでに書いたように、私は極端に痩せていてどうあがいても体質という壁は破れないものと思い込んでいました。
鍼灸の専門学校に通いながら、そのころ住んでいた最寄駅近くにできた、公共施設のトレーニングルームに週に一度通うことにしました。

特別に個人指導を受けられるわけではありませんが、最初に問診があって、後は毎回カルテのようなものに記された内容のトレーニングを行うというのが基本的なルールでした。
今から思えばやはり公共施設ですから、安全第一で決して無理はさせず、目的は健康管理プラスアルファーといったところでしょうか。

私はその単調なメニューの中に、関節の可動域や3・5・7理論を加味して、動作のスピードや各関節の連動、そして今この瞬間は3・5・7のどのポジションにあって、どちらの方向へ動いているのか。

屈筋は収縮方向へ、伸筋は伸長方向へ、屈筋と伸筋がどういうバランスで収縮力を発揮しているから、このポジションがキープできている、さらにどのタイミングで屈筋と伸筋の力の配分を変えれば効率よく目的の運動が続けられて、筋肉を上手に利用できるのかなどなど、歯を食いしばって一心不乱に重量物と対決する、というイメージとは程遠いトレーニングを行いました。

しばらく通っているうちに、言葉を交わす人もできて、中には私の動きに興味を持って話しかけてくる人もありました。

すでに私の中では、1㎏でも思い重量を持ち上げられたり、1回でも多く回数を続けられることがトレーニングの目的ではないという感覚が出来上がっていました。

もちろんトレーニーの方の中には、明らかにそのことが目的で、見た目にもすごい体をした方が何人もいましたが、それはそれで目的があるのですから、けっして間違いではありませんし、そういう目的に特化した指導を頼まれればきちんと結果も出せるとは思いますが。

とにかく私は体作りではなく、人間という動物に与えれた、本能というか本質的に平等に備わっているはずの能力を、きちんと使いこなせるようにしておきたいという、単純な発想から始まったのです。

そうは言いながら、60㎏という低いハードルではありましたが、生涯越えられないと思っていた壁を1年にも満たない期間で超えてしまいました。
体作りではないと言いながら、私の様な悩みを抱えていた人間にとっては、まずこの変化は本当にうれしい出来事でした。

昔、忍者がジャンプ力を鍛えるために、毎日同じ雑草を飛び越えているうちに、驚く程のジャンプ力を身に着け、屋敷の塀に飛び乗ったりできるようになった、などという漫画のような話がありました。
もちろん誇張された話で限界はあるでしょう、いくら頑張っても我々は空を飛ぶことはできませんから。

低い高さから徐々に伸びていく雑草を毎日飛び越えるというトレーニングが、有効であったことは間違いありません。

もし、現在50㎝の高さが飛べるという人に、1mの高さを飛び越えられる人は、下半身の筋力や筋肉自体の太さはこのくらいだから、飛び越す練習はさておき、まずは筋力トレーニングで体を作りましょうという発想になったとき、本当にそれが達成できたでしょうか。

いわゆる肉体改造といわれる、見た目重視、数値ありきのトレーニングです。

逆に50㎝から1mの高さが飛び越えられるようになった人は、その時点で1mの高さを飛び越えるという目標に対して、十分な筋力を獲得したということにはならないでしょうか、私が言いたいのはまさにこの部分なのです。

体を作ってから動きを作っていくのではなく、動き作りの延長線上に(おまけといってもよいのですが)それに必要な体ができていたと考えることのほうが正しいと思うのです。

当然筋力も筋量も、50㎝の時とは変わっているはずです。

20年前から同じことを言い同じ質問をされてきましたが、答えはここにあると思うのです。

私が指導しているトレーニングを外から見ている人は、競技レベルの選手たちにそんな重量しか扱わせないのかという目で見られているのが分かります。

それは、その時点でその選手が私の考え方に沿った動きを表現するためには、その重さ以上ではただ頑張るだけになってしまうし、その重さ以下では逆に動きに対して必要な負荷がかからないため、どちらにしてもトレーニングの効果が得られないという判断をしているからなのです。

当然トレーニングを継続していくうちに、スタート時点からは考えられない重量を扱える選手も出てきますが、それでも関節の連動や可動域、そして3・5・7理論に基づいた筋収縮のポジショニングといった、西本理論に沿った動きをきちんと表現できているのです。

重量や回数を競うのであれば、その時点での相対的な評価があって、強い弱いとかいう順番のようなものや、誰かと比較して勝った負けたという感覚も出てきますが、私の指導にはゴールという概念がなく、常により良い動きを作るためのツールとしてのトレーニングですから、年齢や経験にかかわらず常に成長することができるのです。

以前指導していた、社会人野球の三菱重工広島の選手たちは、高卒大卒に関係なく、入社して3年を過ぎるころから、指導している私が驚く程の成長を見せ、重量も高重量を扱うようになりますが、けっしてそれを目標にトレーニングを行っているのではありません、あくまでも動き作りを求めています。

今年5月まで指導をした川崎フロンターレの選手たちにも、まだまだ不十分だったとは思いますが、理論的な部分と方法論は残してきてつもりです。

彼らに、実際に三菱広島の選手たちが行っていた重量のことを話すと、まるで異次元の話で自分たちには無理だという反応でしたが、三菱広島に入ってくる新人たちも当初はまったく同じ反応です。

同じチームの先輩たちと自分とのあまりの差に驚いて、これはとんでもない所へ来てしまったという感想が、例外なく聞かれます、実際に年数を重ねたベテランの選手ほど重量も扱えるし動きも正確になってきて、若手の見本になってくれます。

しかし、本当に3年くらいたつと、やはり新人から先輩はすごいというレベルに成長していくのです。

フロンターレの選手の中からも、2・3年後に同じことを言ってくれる選手を作りたかったのですが、そこは少し残念です。

3・5・7理論その2

3・5・7という数字は語呂が良かったので使った数字で、1・3・5でも2・4・6でも私が言わんとしている内容は伝えられると思いますが、10のうちの5をセンターに据えることで、ニュートラルポジションから収縮と伸長というイメージを考えると、やはり3・5・7がいいかなということで採用したネーミングです。
日本には7・5・3という行事もありますしね、少しひっかけてみました。

収縮のマックスである3にも、伸長されるマックスの7にも、現実的には行き着かないことは前回説明しました。

我々が日常生活に必要な範囲という意味では、おそらく4.5から5.5くらいの、たったの1という範囲の中での収縮から伸長で十分なのではないかと思います。

たった1と思われるかもしれませんが、以前に説明した関節の運動方向である、基本8方向への運動が我々には与えられているのですから、すべての関節が連動して1という範囲の運動ができれば、それは無限の組み合わせのパターンを持っているといってもいいと思います。

火事場のバカ力という言葉があります。

例えば普通の体格の女性が、火事や地震といった思いもよらない緊急時に、自分の子供を守るために倒れてきたタンスを支えることができた、という類の話はよくあります。

3・5・7理論で説明すれば簡単に説明できます。
本来この女性は、ニュートラルの5という単位から、普段の生活の中では4.5までの0.5程度の収縮で事足りていますが、本来は3という単位まで収縮できる筋肉を持っています。

普段発揮する必要がないということと、大きな単位で力を発揮し、筋肉や関節に負担がかからないように、自分の意識できるレベルでないところで、神経の抑制(ブレーキ)がかかり、無駄に大きな力を出させないようにして体を守ってくれています。

ですから子供を守らなければならないという緊急事態に、本能が神経の抑制を振りほどいたとき、女性は本来持っている能力のすべてを振り絞って、危険ゾーンである3に限りなく近いところまで収縮させ、タンスを支え続けたということが起こるのです。

当然個人個人の能力の差はありますから、ある人には支えられてもある人には支えられなかったということは当然あります。

愛情の深さとかいうものは全く別の問題ですし、日常的に筋肉に対して負荷をかけることが多ければ、そうでない人より大きな力を発揮できたかもしれません。

女性の場合、普段重いものを持ったり力仕事をする機会も少ないでしょうから、発揮した力とのギャップに周囲の人も本人も驚いてしまうということになります。

20年ほど前、昔の羽田空港でこんな光景を目にしました。

健康器具の実演販売だったと思いますが、店の前を通りかかった若い女性に、水がこぼれんばかりに入ったバケツを2つ両手で持ってみてくださいと声をかけました。

結構重そうなバケツで、女性はもち手を握って持ち上げようとしましたが「無理です」と言って、手を放してしまいました。
そこで販売員がすかさず「これを首にかけてください、簡単に持ち上がりますから」と声をかけ、なにやら女性に手渡しました。

女性は怪しむ様子もなくそれを首にかけると、促されて再度バケツに手をかけました、あら不思議さっきはまったく持ち上げることのできなかったバケツが、同じ女性によって簡単に持ち上げられたのです。

女性と販売員が最初から仕込んであったさくらでないとしたら、いったい何が起こったのでしょうか。

そのあと、販売員の意味不明な効能の説明が続き、何人かの人が(私が帯同していたチームの選手も含めて)それを購入しました、実演販売大成功です。

まず、最初に女性の中にもこんなものくらい軽く持ち上げられるよ、という人もたくさんいるでしょうが、多くの人が見ている前で、可愛い華奢な感じの若いおじょうさんが、いきなり重いバケツを二つ持ち上げるという行為自体に無理があります。

「声をかけられ立ち止まってしまったけど、私のような体つきの女の子が、もしこのバケツを軽々と持ち上げたら、見ている人はなんて思うだろう」、心の中ではきっとそう思ったはずです。

そして実際に持ち手をつかんで持ち上げようとすると実際に重い、「声をかけられたからと言って、私がここで頑張って持ち上げたとしても何かもらえるわけではないし」、そこまでは考えなかったかもしれませんが、そういう微妙な重さであったはずです。

そして、首にあるものをかけられた瞬間に、「これであなたはバケツを持ち上げられます」と言われたことで、意外に力持ちなのねと言われなくても済む乙女心の免罪符を与えられた訳です。

もともと、普通の女性なら持ち上げられて当然の重さが設定されていたはずですし、一度挑戦してああこのくらいの重さだったなということは脳にインプットされていますから、バケツの重さに対応できるだけの筋肉の収縮が、脳から指令を発して、無事にバケツは持ち上がったということなのです。

私は商売の邪魔をするつもりはありません、この首輪一つで心理的な抑制を取り除く効果があって、実際に発揮できる能力が向上するのなら安いものです。

しかし、そんなものに頼らなくてもいざという時、人間は驚くほどの力を発揮してくれますし、そのいざが今で、どれくらいの力を発揮しなければならないのかをコントロールできるようにしておくことが、トレーニングであり、その能力が、一般人のそれよりもはるかに高いレベルに達した人たちが、競技者として戦っているはずなのです、けっしてその何かのおかげではないはずです。

日本のスポーツ選手たちは、概してそういうものが好きなのでしょうか、広告塔としていくらかの金銭が発生している場合もあるでしょうが、あまりにも目立ちます。

効果効能ではなく、フッションだと言い切ってくれたとしても、本来、機能を最優先させたユニフォーム以外のものを身に着けるのは、競技のパフォーマンスや接触行為のある競技であればけがの原因にもなりますし、いくら個性の時代とはいえどうなのでしょう。

現実に水泳選手はそういうものを身に着けていませんよね、水の抵抗を少しでも減らすために水着のデザインや素材までが、日夜研究されている水泳競技では、いくらかっこよくても身に着ける選手はいないでしょう。

3・5・7理論と、関節の8方向への運動をどう組み合わせて、動きを作り技術を獲得していくのか、まだまだ続きます。

3・5・7理論その1

筋肉がアクチン繊維とミオシン繊維が、お互いに滑り込むように重なり合うことが、筋収縮の正体だということを学んだ時、その滑り込みの範囲というイメージを、もっとわかりやすく説明することができないものかと考えました。

筋肉のケガでよく耳にする肉離れという状態や、筋肉の両端が腱という組織に移行し骨に付着している部分が引きはがされる剥離骨折なども、うまく説明できるのではないかとも思ったのです。

まず、筋肉そのものに何の負荷もかかっておらず弛緩(ゆったりしている)している状態の長さを「5」という単位だと仮定します。

この時筋肉の両端はもちろん骨に付着しています。

この状態から脳からの刺激を受けた筋肉が収縮し、最大限に縮んで太く短くなった状態の長さを「3」とします。

筋肉には屈筋と伸筋があり、肘の関節を例に挙げると、上腕二頭筋が「5」から「3」の長さに収縮することで、肘の関節は伸ばした状態から曲がっている(力こぶができている)、という状態に変化させることができました。

その時、本来肘を伸ばすために働くはずの上腕三頭筋は、二頭筋の働きを邪魔しないように静かにしていなければなりません。

脳の指令によって、収縮することしかできないはずの筋肉ですが、曲げ伸ばしという相反する運動において、お互いが拮抗筋の役割を果たすようにできています。

そのことはさておき、二頭筋が「5」から「3」に短くなったことで、反対側の三頭筋はゆったりしている「5」の状態から、さらに「7」という単位にまで引き伸ばされることがで二頭筋の邪魔をしないようにしています。

簡単に言うと私が考えた筋肉の収縮形態は、この「3・5・7」という範囲の中で収縮と弛緩を繰り返しているもの、と考えることが自然なのではないかと考えたのです。

力を生み出すという意味では、「7」の状態から「3」の状態に縮むことができれば、引き算をすればもっとも大きな「4」という値の力を生み出したことになりますが、「7」はゆったりを通り越して拮抗筋の収縮によって必要以上に伸ばされた状態ですから、現実には「5」から「3」へ向かう時の「2」という単位が、力の発現の上限と考えたほうが自然でしょう。

どんなスポーツでも、構えの姿勢で力むな、という意味のことを言われると思いますが、力むとは「5」のニュートラルなポジションでいなければならない時に、すでに「3」に近い状態になっていること(すでにある程度短くなってしまっている)を意味します。

すると、「5」から「3」で「2」出せるはずの力が、「4.5」から「3」で「1.5」の力しか生み出せないということになります。

俗にいう柔らかい筋肉が良くて、硬い筋肉は良くないという言い方も、「3」に向かってどれだけの余裕を持っている状態なのかという意味だとすれば、たしかに常に固い筋肉より、普段は柔らかくゆったりしていて、いざという時にしっかり収縮してくれる筋肉のほうが上質であるという言い方も間違いではないでしょう。

ではトレーニングをしたら、この「3・5・7」という単位は変えられるのでしょうか。

「5」の基準は変わらないとして、「3」を「2」へ「7」を「8」へと、その運動範囲を広げることがトレーニングの目的であってもいいはずです。

しかし、人間の関節には個人差はありますが一定の可動域が、それぞれの関節によってあらかじめセットされています。
それを無視して、曲げる筋肉だけが「2」へ「1」へと短く収縮することができたとしたら、関節が本来の位置関係から外れる(脱臼)とか、筋肉の付着部が骨にくっついていられなくなる(骨が引きはがされ剥離骨折)、または筋肉に負荷がかかりすぎて筋肉そのものが断裂してしまう(肉離れ)ということになってしまいます。

まさに前回説明した、指と指を重ねて滑り込ませるイメージと合致します。
指と指はけっして離れてしまうことはなく、なおかつ入り込みすぎることもない、この滑り込み重なり合う二つの繊維の中間地点が「5」であり、引き離されてしまう極限が「7」、これ以上重なり合えないところが「3」ということです。

いかがでしょうか、「3・5・7」理論のアウトラインはイメージできたでしょうか。

次回は、この理論をどうトレーニングに反映させるかを考えます。

骨格筋の構造

私がまだ東京で、当時の早稲田鍼灸専門学校の夜間部に、働きながら通っていた頃のことです。

子供の頃から体を動かすことが大好きで、小学校の6年生の時には愛媛県の宇和島市という小さな町の中の話ですが、いくつかある小学校で、学校対抗の陸上競技、水泳、ポートボール(バスケットのゴールの代わりに台の上に立った人にシュートする競技)、そしてソフトボール大会が行われていました。
私はそのすべての競技で、代表選手として活躍しました。

私が選手という立場で唯一輝いていた時期ですが、残念ながらそれ以降はさっぱり目立った活躍はできませんでした。

その理由の一つに、体が小さかったというかものすごく痩せていました。

小学校から中学校そして高校と進むにつれ、まわりの先輩や同級生たちとの体格差は歴然としていて、どうあがいてもかなわないなと思ってしまいました。

高校を卒業するときには178cm58㎏と、マラソン選手並みの軽量でした。
社会人になって、皇居の周りで行われた健康マラソン大会に出場した時には、当時有名だったマラソンの中山竹通選手と間違われたこともありました。もちろん走り出せばすぐ人違いだと分かりますが。

体を大きくするめに、ご飯をやたらたくさん食べたり、腕立て伏せや腹筋をこれでもかと繰り返したり、人一倍ランニングをこなしたりと、子供ながらに努力はしましたが結局は体質的に太れない体なんだと諦めていました。

それが30歳を目前に、資格を取るために通った専門学校で様々な知識を勉強していく中で、特に解剖学の筋肉の仕組みを学んでいくうちに、もしかしたらと気付くことがありました。

資格を取るための学校ですから、普通ならその筋肉の起始と停止を暗記し、その筋肉が収縮した時にどの関節がどの可動範囲で動くということを覚えればいいのですが、私はその筋肉そのものに興味を持ったのです。

骨格筋はそれぞれ存在する部位に応じて固有の外形をしていまが、便宜上基本形を紡錘形とします。

簡単に言うと、我々が力こぶとかでイメージしているその丸い束の中に、筋束に包まれた筋繊維の束がいくつもあって、筋繊維も筋原線維がたくさん集って・・・、分かりにくいですね。

では線香を、最小単位である1本の筋原繊維だと思ってください。
それが50本くらい集まって紙で束ねたものが筋繊維、その束を50本集めて束にしたものが筋束、そしてさらに筋束を50本束にしたものが、我々が見たり触ったりしている筋紡錘ということになります。

数の50本というのは具体的なものではなくイメージですので悪しからず。

その筋繊維に張り付くように運動神経線維の神経筋接合(運動終板)が存在することで、脳が企図した指令が電気信号として神経を介して運動終板に届き、筋肉がそれに応えて収縮してくれるということを学びました。

では我々が筋トレだと言って行っている運動は、この線香に例えた筋肉の繊維のどの部分に届かせなければならないのでしょうか。

自分が良かれと思って行っていた腕立て伏せや腹筋は、本当の意味で筋肉を鍛えるという行為になっていたのでしょうか、もっともっと深く知りたいと思うようになりました。

実は筋原線維のさらにその奥に、電子顕微鏡レベルの解剖学でさらに深い部分がありました。

それがアクチン繊維とミオシン繊維という、筋肉の収縮の最終単位だったのです。

線香に例えたいちばん基本の一本である筋原線維、その繊維の中で、さらに2種類の最小単位の繊維が滑り込むこが、筋肉の収縮の正体だったのです。

両方の手のひらをしっかり開いて自分のほうを向け、指と指の先が触れ合うくらいの位置から、お互いの根元にあたるまでスライドさせてみてください。

これがアクチンとミオシンの滑走説、スライディングセオリーと呼ばれる理論です。

なるほどと思いました、このスライドを上手に行うことが、体をうまく使えているということ、このスライドが強い負荷に対応できているということが筋力が強いということなんだと。

何か新しい誰も知らないことを発見したかのように、嬉しくなったことを覚えています。

それをさらに分かりやすく、人に説明できるようにするために考え付いたのが、筋肉の長さを3・5・7という単位で説明する考え方でした。

医学的には意味を持たない理屈かもしれませんが、これまで関わってきたドクターたちも、説明の方法としては分かりやすく理にかなっているとお褒めの言葉をいただいたこともあります。

長くなりました、3・5・7理論の具体的な説明は次回に続きます。

伸筋の重要性

屈筋よりも伸筋に重きを置くのが私の理論の根幹であると言いました。

そのこと補足する意味で、人間はなぜ長い時間立ったままでいられるのかを考えてみます。

どんな動作をするときでも、関節を真っ直ぐ保つことも曲げたり伸ばしたりすることも、すべて筋肉の収縮による運動です。

曲げ伸ばしにはそれなりの力を発揮しているから疲労してしまい、長くは動作を続けられないけれど、立ったままなら特に力を入れていないから大丈夫なんじゃないですか、と思われがちですが果たしてそうでしょうか。

ためしに片足をほんの少し浮かせて、立ってみてください1分間立っていることも難しいのが分かると思います。

両足でも目をつぶって立ってみたらどうでしょう、こちらも目を開けているときに比べたら明らかにバランスがとりづらく長い時間はやはり難しくなります。

人間はもともと四足歩行の動物で、それが二本足で直立して生活できるようになったわけですが、他の動物にはこの二本の足で立つということがほとんどできません。

進化の過程で、骨格や筋肉の構造も大きく変化し、人間だけに与えれた能力です。
我々が普段特に意識しなくてもまっすぐに立っていられる、ここに大きな意味があるのです。

関節を伸ばした状態で維持しておくためには、伸筋が働き続けていなければなりません、関節をロックして曲がらないようにしているわけではないのです。

もしその伸筋たちが、屈筋のようにすぐに疲労してしまうような性質のものだったら、長く立ち続けることなどできるはずがありません。

微妙にその発揮する力加減を調整しながら、最低限の筋力発揮でその目的である立っているという行為を継続してくれているのです。

トレーニングを継続して筋肉の肥大が起きると、自他ともにその効果を実感できますが、そこで目立っているのはほとんどが屈筋なのです。

筋肉に過大な負荷をかけ、何年もかけて作り上げた肉体美、大きく盛り上がった胸の筋肉、肘を曲げた時にできる力こぶ、お腹にはくっきりとラインが入り板チョコのように割れた腹筋、これらはみんな屈筋の仲間です。

そして鏡に映る自分の姿として確認でき、ほかの人にも正面から向き合ってその姿を誇示することができます、素晴らしい成果です。

しかし、人間が直立して生活する唯一の動物であることを考えた時に、膝から下は後ろ側のふくらはぎ部分、膝から上は太腿の前の部分、上半身は背中側の部分と、大きく3か所が裏、表、裏と挟みあうように体を前後に支えることで直立を維持しているわけですから、その逆側の筋肉をあまりに重要視してしまうと、本来の体の仕組みから外れてしまうことになります。

体の屋台骨となっているのは言うまでもなく背骨です。

この背骨は体の左右でいうと真ん中に位置していますが、前後で考えると背中の皮膚ぎりぎりの後ろ側にあって、けっして筒状の体の真ん中にはありません。

その背骨がゆったりと軽いS字カーブを描いて骨盤の上に立っているためには、体の前側の筋肉には必要以上に頑張ってほしくない、とは思えませんか。

いや後ろ側の筋肉だって十分鍛えているから大丈夫、そうでしょうか。

近頃と言ってもだいぶ以前からですが、姿勢の悪い人が目立ちます。というより姿勢がいいと感じる人が少ないように思います。
私は新しく知り合った方に、必ずと言っていいほど「姿勢がいいですね、何か気を付けているんですか」と言われます。
長い年月、自分の理論に沿ったトレーニングや体の使い方を意識してきたので、もうそれが当たり前になっているだけで特にそんな意識はありません。

日本だけではないと思いますが、子供が生まれてハイハイができるようになると、親は一日でも早く立って歩いてほしいと願ってしまい、その速さが成長の証のように思ってしまいます。

人間以外の動物が、生まれてから一年間も歩くことができないとしたら、天敵の餌になって生命の危機となるでしょう。

しかし人間はそうではありません、二本足で立つ準備に一年間の猶予をもらっています。

そのハイハイの時期こそ、二本足で立った時に背骨をしっかり支え姿勢を維持するために、最も重要な背中の筋肉の成長の準備をする最も大事な時期なのです、早く立たせてはいけないのです。

ハイハイ運動、思い出してください、手のひらと膝をついた四足歩行の姿勢で、頭を持ち上げることで背骨が適度に反って、背中の筋肉が自由に動いているのが分かると思います。

背骨を介して骨盤とつながる股関節、そして肩甲骨の自由な動き、これこそ人間が本来与えられた能力を生かした運動なのです。

私は幼児教育の時期に、このハイハイを取り入れた運動をすることが、その後の体の成長に必要なのではないかと考えています。もしかしたら頭の成長にも関係があるのではとも思っています。

私の伸筋優位のトレーニング理論はまだまだ続きます。

屈筋と伸筋

昨日の操作ミスを忘れて、切り替えていきましょう。
屈筋と伸筋の話です。

だれにでも分かる腕立て伏せの動作、背中から足のラインを真っ直ぐにして、両腕は肩幅くらい肘を伸ばして手のひらで体を支える、これがスタートポジションです。

まだ何もしていませんが、この状態を維持するためには、肘や膝や背中が曲がらないように、関節を伸ばす筋肉、伸筋が常に働いています。

特に腹巻ゾーンと言われる体幹部分が弱いと、体を真っ直ぐ保てませんので、今はやりの体幹トレーニングの基本は、この腕立て伏せのスタートポジションを30秒なり1分間維持しているだけで十分な効果があります、ただ1分間そのままでというのはかなりキツイとは思いますが。

さあこの姿勢からゆっくり肘を曲げて胸が床につくすれすれまで、真っ直ぐに維持した体を沈めていきます。

肘を曲げるという運動の主役は、腕の太さを誇示するときに力こぶを見せつける、あの上腕二頭筋です。

片手でダンベルを持って、伸ばした肘を曲げていく、ダンベルカールという種目であれば、まさに主役の一人舞台と言えるかもしれません。

しかし、腕立て伏せの場合、肘を曲げるという運動の主役だと思っている上腕二頭筋が、他の筋肉の関与を無視して主役を演じ切ってしまったらいったいどうなるでしょう。

体を真っ直ぐに保ち、床に落ちないように支えてくれていた上腕三頭筋が、その活動を停止し主役の二頭筋だけが曲げることのみに100%力を発揮したら、そうです顔面から床に激突してしまうのです。

外から見える現象としては、伸ばしている肘を曲げていき、曲げきった位置から今度は肘を伸ばし、体を持ち上げていく動作です。

曲げていくときには上腕二頭筋、切り替えして伸ばしていくときは上腕三頭筋が収縮し、結果として上腕の曲げ伸ばしに関与する両方の筋肉を強化している、という風に見えるわけです。

ところが実際には、突っ張り棒のように伸ばして支えている状態の時から、常に働いてくれているのは上腕三頭筋のほうなのです。

体が一気に落ちていかないように、スピードと姿勢をコントロールし、少しずつ肘の角度が体の重さによって曲がって、下がっていくのを受け止め、さらに収縮の度合いを高めながら胸の位置をコントロールし、よしこの位置から伸ばして体を持ち上げるぞというタイミングで、さらに強い収縮を発揮し体を持ち上げていくのです。

言いたいことは伝わっているでしょうか、そうです腕立て伏せの主役は肘を伸ばす「上腕三頭筋」なのです。

同じように、きおつけの姿勢で背中が丸まっている人に対して、「胸を張れ」という指示が飛びますね。

筋肉は、脳が企図して指令を発し、神経伝達物質が神経を伝わって筋肉の受容体にその指令が届くことで、アクチンとミオシン(この用語に関してはいつか詳しく話ができると思います)が重なり合うことで収縮し、関節の角度を変えます。

この事実は最も重要なポイントで、筋肉は縮むことはできても、意識した指令によって伸びるということはできないのです。

ですから胸の筋肉が、張れイコール伸びろと言われても、何の対応もできません、でも胸を張れと言われた人はしっかり胸をは張って、良い姿勢を取ろうとしますよね。

ここが日本語の間違いなのです、張った収縮運動をしたのは胸ではなく背中の筋肉なのです。

背中の筋肉が収縮して、体の屋台骨である背骨をしっかり立てようと頑張ってくれたことで、結果として胸を張った良い姿勢になったというのが正しい表現ということになります。
では今後、姿勢の悪い人への号令は、「背骨をしっかり立てて、肩や胸をリラックスさせて」、なんて言われてもピンときませんね。

そんなことどうでもいいじゃないかと思われるでしょうが、この事実をしっかり認識していただかなければ、屈筋ではなく伸筋に対するアプローチこそが、トレーニングの基本なんだという、「西本理論」の根幹を理解していただけなくなるのです。

筋肉の役割

前回、「筋肉の仕事は骨を動かすことで、それ以上でも以下でもない」、そう言い切りました。

体というのは、元々女性の卵細胞というたった一つの細胞が、精子との受精によって分裂を繰り返し、遺伝子によってプログラミングされて人間として成長してこの体を作り上げてくれます。

骨だ筋肉だ内臓だと、後から名前がついたものが寄せ集められて組み立てられたものではありません。

たった一つの細胞、だったとしたら今ある我々の体も、皮膚という皮袋の中に様々な組織が浮かび漂っている、というイメージにはなれないでしょうか。

このあたりの表現は、操体法の創始者である、故橋本敬三先生の著書を読んでいただければと思います。

その皮袋の中身は、様々に分化しそれぞれの役割を持ってはいますが、けっして外に出てくることはできません。

私の著書「朝3分の寝たまま操体法」の中で紹介した、「足指もみ」を行う時、まさに皮袋を揺らしている感覚で、人間の体が硬いなどという感覚とはほど遠いものとなります。

それはさておき、我々の体が動くという行為は、筋肉の収縮によって骨をひっぱっているという単純な作業です。

骨と骨とは靭帯という組織でつながれています。
この靭帯という組織は、筋肉とは違って脳の指令によって収縮することができません、筋肉の収縮によって角度を変えようとする関節の角度を、ある一定の範囲の中でつなぎとめることで、体を守っています。

体の柔軟性に関しては、先天的にこの靭帯が細長くしなやかであれば、筋肉の収縮によって動かされる骨の可動範囲が広くなるわけですから、いわゆる柔軟性のある体と言えます。

しかし、こういう靭帯を持った体の筋力がものすごく強かったとしたら、靭帯の負担は計り知れないことになるわけですから、一般的には筋力が弱い人が多いといえます。

逆に、靭帯が短く太い人は、関節の可動域も当然小さくなりますが、大きな筋力を発揮されてもその負荷を受け止めることができるので、筋力が強くまた強化していきやすい体だといえます。

その両方を兼ね備えた柔らかくて強い、というのが勿論理想ですが、両方のタイプの人を後天的にまったく同じ強さと柔らかさにするというのは難しいのではないかと思います。

白筋と赤筋の割合を調べて、瞬発系か持久系かの選択を若い年代でさせることが、その後のスポーツ活動での向上が望みやすい、という考え方もありますが、同じように自分がパワー系なのか柔軟系なのかを知っておくことで、スポーツの種目や、同じスポーツでもポジションの選択に有効であると思います。

その筋肉ですが、野球選手は〇〇筋を鍛えなければならない、サッカー選手はと、限定的にトレーニングの種目を限定してしまいがちですが、私はそうは思いません。

まずは人間として与えられた能力を余すことなく発揮できるようにすることこそが重要です。

もしかしたら我々はその能力の半分も使えないまま一生を終えているかもしれません、競技レベルの選手たちでさえ同じことを感じています。

かなり前のことですが、トレーニングの専門誌に記事を書いたとき、技術という言葉を「自らが企図した筋肉の活動を、反復継続して行うことができる能力」と定義しました。

どんなスポーツでも、どんなに細かい作業でも、つまるところこういうことです。

トレーニングコーチという呼称があって、技術を教えるコーチとは一線を画していますが、いわゆる技術を獲得していく行為というのは、まさに自らが企図した筋肉の活動を反復継続して行えるようになった結果ということなのです。

トレーニングと技術練習は別物と考えること自体がナンセンスなことで、両方分かっていて両方指導できればそれに越したことはないのですが、せめてどちらの分野にもお互いが興味を持って見る目だけは養っておかなければなりません。

私がトレーニングコーチとして、グランドレベルの練習をただ見ていることも、実はコーチングの一環であるわけです。

次回はもっと細かい、伸筋と屈筋による相互補完による筋肉の収縮活動について述べてみます。

体の仕組み

力感あふれる筋肉のパワーをフルに発揮して腕を振るより、リラックスしたやわらかい状態で腕を振ったほうが、早く鋭く振れる事実、だったら何も頑張ってトレーニングする必要はないのでは・・・。

今日はここからですね。

ではまず筋力・パワーってなんでしょう。

筋力がなぜ必要なのか、その前に我々の体はどういう仕組みで動き、筋力はそれにどう役立っているのかを考えてみましょう。

人間の体は大まかに分けると、骨格を形成するたくさんの骨と、それを動かす筋肉で構成されます。

筋肉ばかりが主役扱いでクローズアップされ、筋トレという言葉はあっても、骨トレという言い方は一般的ではありません。しかし、現実の人間の動きは骨の位置関係、骨と骨とが構成する関節の角度の変化によって、動きを作り表現しています。
スポーツの動作もすべてそうです、走ること、投げること、ボールをけること、泳ぐこと、自転車のペダルを踏むこと、すべてあるポジションにあった骨の位置関係が変わることによって、外部に対して力を与え、またその反力を使って次の動作、骨の位置を変えていくという行為の繰り返しです。

ではその関節というのはどういう動きをしているのでしょうか、少しめんどくさい部分ですがしっかり理解してください。

関節は、基本的に8方向への動きでその角度を変えていきます。
手首で確認していきましょう。

前腕部から指先までをまっすぐに伸ばした状態をスタートポジションとします。

1番目は手のひら方向へお辞儀をするように曲げます、これを屈曲と言います。
2番目は逆に手の甲方向に曲げます、これを伸展と言います。
3番目は小指側に倒します、これを外転と言います。
4番目は親指側に倒します、これを内転と言います。
5番目は中指を中心として小指を手の甲側に捩じります、これを外旋と言います。
6番目は中指を中心として小指を手の平側に捩じります、これを内旋と言います。

実際に動かしていただくと、ここまでの6方向はほとんどの方が正解してくれます。
最初に8方向だといいましたので、その6方向を少し変えたような動きで、残りのの2方向を導き出そうとしますが、それでは正解になりません。

先に答えを言いますと、圧着と離解という言葉で表現します、解剖学の関節の運動方向の種類においては正式な用語ではありません。
しかし、この2つはとても重要な動きとなります。

圧着とは、ボクシングや空手の打撃動作で、こぶしをまっすぐ相手にヒットさせた状態をイメージしてください。

関節は骨と骨との接合部分ですが、骨と骨はぴったりくっ付いているわけではありません。
それぞれの関節に必要な隙間があって、これがあることで関節の動きがスムーズにできます。

打撃によって、力の方向に対して相手の体でストップをかけられたのですから、当然隙間は小さくなりぶつかってしまいます、これが圧着です。

最後に離解です、今度は野球の投手がボールを投げる時の肩関節・肘関節・そして手関節から指先の骨まで、静止した状態のボールに150キロものスピードを生むエネルギーを加えるために腕を振ります。

そのためボールを持った指先は、ものすごい勢いで体の中心部から外方向(捕手方向)に向かって位置を変え、それに連なってすべての関節は、その可動範囲いっぱいに引き離される状態となります、これが離解です。

ダジャレのようですが、この8方向への展開、理解していただけたでしょうか。

大きな関節なら動きも分かりやすく理解も容易だと思いますが、この8方向への展開は、指先の小さな骨の間にも存在します。

人間が人間らしく2足歩行で歩けるようになったことで自由になった、頸椎7個、胸椎12個、腰椎5個、そして仙骨で構成された背骨にも、その一つ一つに関節があり、8方向へ展開できることで、8×8×8×8×・・・・と、背骨だけで8の24乗ですから、電卓ではとても計算できない天文学的な数字になり、これを流れるように自由に操れる能力こそが人間がすべての動物に勝る、神(人間の届かない存在という意味で)から与えられた唯一無比の能力と言えるのです。

私はそういう意味で、もっともこの能力を高め動きを表現出来ているのは、ダンサーではないかと思っています。

マイケルジャクソンからステージのバックダンサーのオファーを受けた時、マドンナのバックダンサーを務めていたため、この仕事が終わったらぜひ、というタイミングでマイケルが亡くなってしまったため、実現しなかったという有名な日本人ダンサー、「ケント・モリ」という方がいます。

この方の動きはもはやトレーニングや努力だけで作られたものとは思えません、8方向がどうのこうのなどと理屈を言うこと自体が意味をなさないものだと思います。

ケツメイシの「月と太陽」という曲のミュージックビデオを、機会があれば見てください、さらに驚くのは、彼のバックで踊っているのが大人ではなく子供たちだというのですから、人間の体を使っての表現力には想像を超えたものがあります。

今はダンスブームで、体育の授業にも取り入れられているそうですが、人間として生まれ生きていくために、持って生まれた能力を発揮できるように準備していく過程として、固定観念の中にある限られたスポーツ種目の動作を習得することより、よほど大切で意味のあることだと思います。

さて、体の仕組みに戻りますが、その関節の角度の変化をもたらしているもの、それが「筋肉」なのです。

そういう意味では、筋肉は決して主役ではありません。

「筋肉の仕事は骨を動かすこと」、それ以上でも以下でもありません。

本来その大きさや太さを競うことには何の意味も持たないはずですが、それ自体を競うスポーツ「ボディビル」というものが存在し、昔から男性の筋肉を誇張した絵画や彫刻が存在し、現実スポーツの世界でもそういう体格に恵まれた選手が多いため筋肉偏重主義に陥り、肉体改造という名のもとに、単なる体位向上がトレーニングの目的そのものになってしまう傾向があります。

説明してきたように、8方向への展開をいかに滑らかに力強く行うことができるかというのが、人間の持っている能力を高める究極の目的ですから、その目的に対して筋肉をどう使っていくか、それが本来の意味でのトレーニングであり、体の仕組みを知っているということであると思います。





トレーニングの目的

私が個人であれチームであれ、トレーニングの指導を依頼された際、最初に必ずミーティングを行います。

今年の1月にも2グループに分けて、それぞれ90分の時間をかけ、川崎フロンターレの全選手を前に「西本理論」の講義を行ってから、トレーニングの実技に移ったことで、選手たちの理解度は確実に増したと思いますし、実際のプレーの中でも、どこかであのミーティングの内容とリンクして思い出してくれていれば嬉しいのですが。

競技レベルのスポーツ選手であれ、一般の方の健康維持増進ということであれ、私の指導を受けてまでトレーニングを行うからにはそれぞれ大きな目的があるはずです。

私としても、トレーニーとなる方がどういう目的で、どういう意識で私の元を訪れたのか、きちんと把握しておかなければなりません。

少なからず普段の生活ではありえない負荷を体にかけるのですから、最低限の覚悟というのも必要となります。
トレーニングをしてどうなりたいのか、どんな効果を期待しているのか、こちらから質問します。

野球やゴルフの選手であれば、単純にボールを遠くに飛ばせるようになりたい、速いボールを投げられるようになりたい、そのためには筋力アップが欠かせないと思う、トレーニングを行うことで体が強くなり、ケガをしにくい体を作りたい、基礎体力が不足しているので体全体のパワーをつけたい、大体こんな感じで話をしてくれます。

相手が高校生くらいまでの年齢であれば、うんそうか頑張ろうねと、それ以上難しい理屈を並べて彼らの頭の中をを混乱させる必要もないかもしれません。

しかし、それ以上の年齢で目指しているレベルが高くなればそうはいきません、自分の口で話をさせておいて、いよいよ西本理論をぶつけていきます。

高校生がパワーアップして、外野の頭を越えなかった打球が超えるようになりました、程度の効果でいいのなら特に難しい理論も、トレーニング自体の内容も、少し知識がある程度の方でも十分指導できるでしょうし、効果も感じてもらえると思います。

たとえば投手がボールを投げる時の腕を振る動作、今では150キロを超えるスピードを出せる投手は珍しくありません。

その投手の上半身の筋力、例えばベンチプレスの拳上重量が1年間のトレーニングで50キロしか上げられなかったのが80キロへと60%向上したとします。

もともと110キロのスピードしか出せなかった投手が、60%増しの176キロのボールを投げるなんて不可能ですよね。
これは単純な計算上の問題で関係なさそうに思われるでしょうが、さらに肘を曲げ伸ばしする上腕二頭筋と三頭筋の筋力、筋量も明らかに向上し、もの凄く太く力のありそうな腕になったとします。
握力も40キロから60キロにと、すべてにわたって当初の目的は果たせたかのように感じます。

もし私が高校生のチームの指導を依頼され週に1度の頻度で指導したとして、チームの平均値でこれくらいの向上が見られれば、依頼した側から見れば願ったり叶ったりで、報酬にボーナスでも加えていただけるかもしれません。
そして毎年選手は入れ替わるわけですから、同じ作業を毎年繰り返せばいいだけのことで、ある意味簡単なことです。

それはベースとなる筋力が低かっただけのことで、一定レベルに達すればそこからは数値上の大きな向上は望めません、プロレベルの選手のトレーニングというのは、ここからどういう方向へ目標設定して指導できる能力があるのかというのが、指導のプロとしての腕の見せ所になります。

もう一度腕を振る動作の話を戻しますが、利き腕を肩の高さ以上に構えて、自慢の腕っぷしを最大限に利用しこぶしを強く握りしめた状態で、腕を目いっぱいの力で強く振ってみてください。

今度は同じ構えから、こぶしは握るでも開くでもないゆったりした状態で、腕を振ってみてください。

いかがですか、どちらが腕を鋭く早く振ることができましたか。

リラックスして力を抜いた状態のほうが明らかに早く振れましたよね。

それじゃトレーニングなんてする必要はないじゃないか、ということになりませんか。

そうではないのです、だからこそトレーニングは必要なのです。

今日はここまで、次回に続きます。


プロフィール

Author:西本 直
1993年、Jリーグサンフレッチェ広島を皮切りに、社会人野球三菱重工広島・協和発酵・ヴィッセル神戸・川崎フロンターレ、そして広島カープ佐々岡真司投手など、プロアマ問わず競技レベルのスポーツ選手から一般の方まで、トレーニングやメンテナンスの指導を行ってきました。
その経験と知識の蓄積を「西本理論」としてまとめ、一人でも多くの方に実践していただくことが、これからの私の使命であると信じ、このブログから発信していきます。
私の理論はスポーツ選手のみを対象としたものではなく、ビジネスマンや家庭の主婦まで老若男女すべてに当てはまる不変のものです。
指導や講演のご依頼も受け付けています。
実名でツイッターも書いていますので、チェックしてみてください。
また、2013年9月9日にConditioning Studio 操をオープンしました。こちらもご覧ください。
また、遠隔地にお住まいの方を対象とした動き分析とアドバイスを行っています。
詳細は「スタジオ操」のホームページ内の「遠隔サポート」をご覧ください。
西本塾を深める会を9月10日(日)に開催を予定しています。
詳細はstudio操のホームページ内の「講習会情報」をご覧ください。

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