本当に伝えなければならないこと

先日訪れてくれた高校生とその指導者、予定の時間を大きく超えて、私自身にとっても納得のできるレベルの指導ができたと思います。

何をもってそう思えるのか、それは選手と指導者それぞれの立場の人間が見せてくれた会心の笑顔でした。

選手は勧められてここにやってきたので、実際には私がどういう人間で何をしてくれるのかもよく分かっていません。

指導者はnumberwebやこのブログを通して私の存在を知り興味を持ち、自分の指導に活かせる何かがあると感じてくれたようです。

膝や背中といった体の部分に違和感を感じ、いまひとつ伸び悩んでいる選手の動きを、私がどうやって改善して行くのか、自分の目で見たいと、運転手を買って出て、保護者の代わりに引率してきてくれました。

一期一会とは言いますが、指導者の方は次回の西本塾にも参加を希望してくれています。

スタート時点では、私の言っていることをすぐに理解してくれるはずはなく、とりあえずそうなのかなという感じでトレーニングが進んでいきます。

室内で行うトレーニングだけでは、実際に自分がプレーをする感覚とリンクさせるのは難しいことだと思いますが、まさに体そのものに対するアプローチがきちんと行われていなければ、実際の動作を改善することなどできるはずがありません。

この辺りの感覚は、長年の経験で養われてきたもので、どこかのドリルでつまずいてしまい、先に進めなくなっても、角度を変えてアプローチする方法はいくらでも考えてありますので、まったくあわてる必要はありません。

それどころか、これでもダメかこれでも分からないのかという状況が続けば続くほど、また新しいアイデアが湧いてくるので、こちらとしても望むところです。

選手自身にはまだまだ手応えというか、理解できている様子はなくても、私の中では今日中に到達させたい目標に向かって着実に進んでいるという感覚がありますので、多少予定の時間を過ぎてもまったく問題はありません。

そういう選手を相手にしていて一番のテーマとなるのは、やはり「頑張らないことが頑張っている」という感覚を知ってもらうことです。

屈筋に頼らず、伸筋の連動を生かした体の動きづくりという、究極のテーマに対する挑戦です。

外に出て、歩くことから走ることへの移行、スラローム走や上半身と下半身をわけて使う一対一の対応、前後左右そして回転動作における重心移動の方法など、自分が実際に必要でなおかつできていなかったと実感できる動作のドリルになると、選手の目つきも変わってきます。

そしてそれらが自分の思っている以上に改善されていくのが分かってくると、行っているトレーニングのドリル自体が楽しくて仕方がないという表情に変わっていきます。

指導者として日々接している教員の方から見ても、ほんの数時間前とはまったく別人のような動きを見せる選手を、まさに狐につままれたようにというか、何が起こったのか理解できないという表情に変わっていくのです。

そこにたどり着かせるために、時間をかけて室内でのトレーニングを行い、それらができるようになるための下準備を行っているのです。

私にとってはまったく当然の流れで、不思議なことでもなんでもありません。

1人の人間に対して、現状を正確に把握して、問題点を洗い出し、何がしたいのかどうなりたいのか、プラス私が見て、何ができるようにならなければいけないのか等々、与えられた時間の中で、できるだけそれに沿った動きづくりを提案していきます。

これは競技の種目を選びません、もしかしたらスポーツ以外の例えば楽器を演奏する方や声楽家の方にも応用できると思います。

人間の体は無限の能力を秘めているように思います。

私にとってこういう仕事が一番楽しく、簡単なことのように思います。

現状把握と目標設定が間違わなければ、結果はすでに見えているのですから。

悪く言えば、その後の結果責任を負う必要がないというのも、気楽に感じる大きな要素かもしれません。

ここにきてくれた目的に関しては、十二分に効果を実感してもらえますが、その後の個人やチームとしての結果については、正直私の力の及ぶところではありませんから。

そういう意味では、熱心な指導者がきちんとした態度ですべてやることを見届けてくれたというのは、本当にありがたいことでした。

やはり指導者が変わらなければ、次々と入れ替わっていく選手を変えることはできませんから。

私が伝えられることは、とりあえずしっかりと伝えられたと思います。

あとはそれをどうやって継続していけるかという環境の問題がありますが、今回は指導者が一緒に来てくれたので安心して今後に期待ができます。

やはり自分が実際に指導するという、これまでやってきたことの延長線上の仕事はやりやすいというか、すべて自己責任において行うことができるのでストレスになりません。

しかし、同じ立場の方々や指導者の方々に私の考えを伝えるという作業は、まったく別のもので、色々と考えることが多くなっています。

元々西本塾を行うきっかけとなったのは、このブログを読んでいただいた方から、書いてあることを実際に体験したい、直接話を聞いてみたいという要望からでした。

そんな人が本当にいるのならと回を重ね、多くの方に私の経験や技術を伝える機会をいただきました。

いわゆる技術を教える講習会や勉強会といったものとは一線を画しているつもりです。

指導を受ければ、私のやっていることと同じことができたり、私と同じものの見方ができるようになるほど簡単なことをやってきたつもりはありませんから。

では何を伝えたいのか、一年間やってきてもう一度考えてみたいと思います。

私が指導を受けた恩師である「渡辺栄三」先生、この方の存在なくして今の私は語れないと思います。

最も印象に残っているシーンは、西本塾の中でも紹介していますが、参加者の皆さんに片方の腕を伸ばした状態から肘を曲げさせ、それぞれ一人一人に今自分がやった動作を言葉に出して説明させるというものでした。

先生からそのことに対しての答えはありませんでした、「みなさんいろいろなことを思って動いているのですね」ということばだけでした。

第三者的に見れば、全員まったく同じ動きをしているように見えても、それに対する動きの意識は全員同じではなく、同じ人であっても意識を変えれば動きも変わるし、その状況によって意識も動きも同じではないということが、人間を見るという立場の人間にとって、最も大切なことである、ということを教えていただけたことでした。

もちろん先生はそんなことを言われたわけではありません、私がそう受け取っただけです。

もしかしたらその場に居合わせた、他の受講者の方々には、そのシーンは全く記憶にも残っていないことかもしれません。

今私が指導する立場になると、どうしても正しい答えを教えたくなり、分からないではなく分かるように教えたいと思ってしまいます。

指導を受ける側にもその雰囲気は伝わってしまい、細かいところまで私の答えを引き出そうと質問されてしまいます。

まったく矛盾しているようですが、私が口を酸っぱくして言い続けている「木を見て森を見ずにならないように、枝葉のことに気を取られず、根っこを掘る為の考え方を身につけて欲しい」という表現はどこへ行ってしまったのかということになります。

「正しいことは教えてあげたい、しかし、どこまで教えるかという境目が難しく、聞けばなんでも教えてくれる存在になってしまっては、私を超える存在とはなり得ない」、まさにそういう状況に陥っています。

自分には聞ける人も答えてくれる人もいなかった、すべて自分の意思で切り開いてきたという自負と誇りがある中で、安易に答えを求めて質問を繰り返す人たちに、どう対応したらいいのか、正直迷っています。

今すぐに答えが必要な、結果を求められる選手に対しては、相手がどう思おうと教えなければならないことはきちんと教える、後で心残りがないようにすべてを出し切るのが私の主義です。

自主性を待っていては終わってしまう選手の方が多いことは、嫌という程味わってきました。

本人のやる気次第で、指導する側が教え魔になっては、選手が本当の意味で自立できず良い選手に育っていかないという考え方もあるでしょう、しかし、選手や指導者も含め、私が知っていること気づいていることで、彼らが知らないこと気づいていないことがあると分かっていて、黙っているわけにはいかないのです。

これが同じ立場の方々や、それを目指している方々に対してとなると、少し話は違ってきます。

私のものの見方や判断の仕方を、文字や言葉にして伝えることは不可能です。

どうして私がそういうものの見方、考え方をするようになったかというプロセスから、何かを感じ取る感性がなければ、私に近づくことはできないでしょう、同じ人間ではないのですから。

そういう意味も含めて、西本塾に参加してさらに学び続けたいきたいという方を対象にして「深める会」を行っています。

この会も、その趣旨である深めるということから、西本塾では体験できなかった実技の部分で、個人的に私の手技や施術を受けて、理論だけではなく体で体験したいという補習というか復習の会という様相を呈しています。

それが悪いと言っているわけではありませんが、その先にこそ深める会の趣旨が待っているのです。

時間もお金もかかりますが、本当の意味で深めていくためには、とにかく私の前に何度足を運ぶか、これ以外に方法はないと思います。

残念ながら繰り返し深める会に参加してくれる人はいません。

今、関東地方から参加してくれた人たちを中心として、深める会の東京開催が企画されています。

本来ならばありがたいことなのですが、ここでの深める会も人数を5人と制限し、一人ひとりのニーズにできるだけ沿った内容と、私の思いを深く伝えるためのくふうもしています。

それが10名を超える参加者一人一人に向き合って、本来の深める会の趣旨を全うできるものになるのか、自信がありません。

また参加して下さる方々も、やはり枝葉の質問を山ほど準備して私を待ち構えていることでしょう。

私がやりたかったのは、私が目標にして欲しいと思ったことは、本当にそれだったのでしょうか。

私と同じ手技ができて、私と同じように走れて、私と同じような身のこなしができるような指導ができるようになることが目的ではなく、本当の意味での西本理論を深く受け継ぎ、それを超えるような考え方にたどり着いてくれるような、そんな気概を見せてくれる人に出会える日はくるでしょうか。
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勝負へのこだわり

32歳で勤めていた会社を辞め、故郷に帰って治療院を開業した頃、その後の自分の人生をまったく想像すらできませんでした。

このままでは終わりたくない、その一心で働きながら夜間の専門学校に通い鍼灸師の資格を取りました。

しかし現実には、それがすぐに開業ということに結びつくとは自分でも思ってもいないことでした。

それがあることがきっかけとなり、半年後には会社を辞めて故郷宇和島で開業していました。

生まれ育った町で、人の役に立つ仕事ができると、素直に嬉しく思い、少しずつその目標が現実になるつつあると感じ始めて矢先に、広島に行くことを選んでしまいました。


いつもの口癖の人生あみだくじに、また大きな一本の線が引かれた瞬間でした。

スポーツトレーナーという言葉がまだ一般的ではありませんでしたが、私に与えられたというか、期待された役割は、肉体を酷使して戦うサッカー選手の体を、少しでも良い状態にして、練習に参加させ試合にでられるようにすることは、はっきりと分かりました。

選手の痛みやケガに対して、他の人ではこうはいかないだろうという結果を残していくことで、自分の存在意義を確認し、自己満足も得ることができました。

いわゆる腕のいいトレーナーと言われることに対して、もちろん悪い気はしませんでした。

少しずつ周りが見えるようになってきたとき、自分のやっていることは確かに選手に対して良い効果を生んでいるし、チーム全体の利益にもつながってはいるけれど、プロスポーツの現場にいる人間として、一番大事なものはなんだろうと考えるようになりました。

私の生まれながらの性格です、一つ事に満足してしまうとそれ以上のことをやりたいと考えてしまうのです。

チームにとって一番大事なこと、それは「試合に勝つこと」です。

そのために、監督以下コーチ、トレーナーをはじめ、クラブの運営に関わる全てのスタッフが一丸となってスクラムを組んで進んでいかなければなりません。

形の上では1年ごとの契約を交わす立場ではありましたが、クラブという組織の中では、会社員の時と同様、与えられた役割を全うする歯車の一員であるという自覚も必要でした。

勝ち負けの責任は、まず現場の全権を負う監督にあります、Jリーグではシーズン中であっても、成績不振による途中解任は、日本だけではなく世界中のクラブで日常茶飯事です。

プロ野球の世界では、日本的な発想からか、そういうことは稀ですが、現実にはやはり監督の責任というものは重いと思います。

そんな中で私は、自分のやっている仕事が現実として勝ち負けに直結しているという感覚を持つようになってしまいました。

歯車の一部としてではなく、監督という立場でもない私だけが感じる立ち位置を意識し始めたのです。

それは、私という人間がここにいなければ、この選手は今日この試合には出場できていない、そんなことを考えるようになったのです。

それはトレーナーという立場としてこそ評価されるものであって、それと勝ち負けは関係ないと言われるでしょが、選手層がそれほど厚くなかった当時のチーム事情の中で、この選手が出場してくれれば、この選手が出場できなければという問題は、まさにチーム力を左右する重大な問題でした。

悪く言えば、私はトレーナーという仕事の範囲を超えて、そういう意識を持ってしまったのです、思い上がりも甚だしい、立場をわきまえろ、そう思われるかもしれませんが、実際に私はそう思ったのです。

それはまさに自分が選手と一緒に戦っていることの証でもありました、「私は一生懸命やっています」、どんな立場の人でもそう言うかもしれません。

私は一生懸命やっているという言葉で自分のやっていることを評価することはできませんでした。

4週間はかかると診断されれば、3週間で復帰させてあげたい、動きに物足りなさを感じる選手には、それを改善するトレーニングを考えて行わせ、少しでも能力を向上させてあげたい、そんな気持ちが一瞬たりとも頭の中から消えることはありませんでした。

練習中も試合の時も、まるで自分が走っているような感覚に襲われ、怪しい言い方になりますが、選手が痛めた箇所が私も痛く感じたりということさえありました。

私の思いは選手にも、そして当時の監督であるバクスターさんにも通じたようで、私の仕事の範囲はどんどん広がり、どうでもいいことですが、一言トレーナーと書かれていた名刺の肩書きも毎年変わっていきました。

何も知らずに飛び込んだプロスポーツの世界、一番楽しい時期でした。

それが監督が変わり、クラブとしての方針も変わったことで、私はトレーナーという枠の中に押し返されてしまいました。

そうなると自分がこのチームの勝ち負けに関与しているという感覚はどんどん薄れ、自分の存在そのものが本当に必要とされているのかさえ疑問に感じるようになりました。

それでもその年には、主力選手の大きなケガが相次ぎ、元のトレーナーとして大きな責任を負う仕事があったため、その時の選手やチームとしては、やることはきっちりやってくれていると思われていたのかもしれませんが、自分の中での勝負に対するこだわりは、まったく感じることができませんでした。

その後、社会人野球のチームやプロ野球選手の個人トレーナーとしての仕事もしましたが、私の仕事は個人の成績を向上させることであり、チームを勝利に導くことであると思い続けてきました。

もちろんチームであれば監督がいてコーチがいてという組織ではありますが、私の中にある勝つためにはこうした方がいいという、頑としたものがあり、それが生かされない環境であると感じたときには、もうそこにいる必要がないと思ってしまうほどでした。

様々な要素の中で戦力を整え育て、戦っていくなかで意見の相違があるのは仕方のないことですが、ここは譲れないという部分は如何ともしがたいものがあるのです。

勝っても負けても反省は残ります、もっとこうしておけばよかった、これも教えておけばよかった、いろいろなことを考えますが、修正点が見つかったときにそれを実行に移せる環境であるかどうかが、私にとって一番大きな問題なのです。

言いたいことも言えないままに負けてしまうのであれば、もうそこにいても仕方がないのですから。

個人を相手にするときにはなおさらです。

やってほしいことやらせたいこと、身につけてもらわなければならないこと、私の頭の中には溢れるくらいたくさん入っています。

例えばシーズンオフのこの時期にはこういうトレーニングをやらせたい、シーズン前の始動時にはこういうトレーニングから始めさせたい、結果を残すための最善の方法を取ってもらいたい、個人として契約する場合には、選手本人以上に結果に対して、私の方が大きな責任を負うと本気で考えていました。

野球の投手は、その動作そのものを改善することで必ず結果が変わります、スピードもコントロールも持久力も、もちろん打者を打ち取るという投手本来の目的も含めてです。

ですから、できれば年間を通してそのすべてに関わらなければ、本当の意味で私の思った通りの結果に結びつけることはできません。

佐々岡投手とは9年間一緒に戦いましたが、正直私の思っていることの6割くらいしかできなかったように思います。

それでも彼は立派な成績を残してくれました。

すべて私の思った通りのことをやらせてくれたら、それ以上の成績が残せたのか、あまりの窮屈さに離れていったのか、今となってはもう分かりません。

そういう部分に関して完全主義者である私は、こういう関わり合い方では、自分の納得できるような指導ができないから、来年の契約は無しにしようと、何度言ったかわかりません、その度に、今のままの関係でやらせてくださいという、彼の言葉に、まあいいかと続けてしまったのも私ですが。

それでも9年間にわたり一緒に戦いましたが、その日数を数えると、チームの人間ではない私と過ごした時間はとんでもない日数になります。

彼ほどの選手でも、一朝一夕に指導したことを身に付けていけたわけではなく、毎日毎日の地道な努力であったことは明らかです。

昨年末、その彼から連絡があり、新たな選手の指導に取り組みましたが、思ったような結果を残すことができませんでした。

同じことというより、あの当時より指導の仕方も要領を得た教え方ができていると思いますが、環境が違いすぎました。

もっと数多くの時間をかけられると思いましたが、ここを訪れてくる回数が少な過ぎて、本当の意味で頭と体が理解しているという状態にまでは至っていませんでした。

今回はある程度こういう状況も予想できていたので、過剰な感情移入はしないように、また結果責任も感じすぎないようにと、当初は思ってスタートしましたが、どうしても気持ちは抑えきれず、ストレスのたまるシーズンとなりました。

やはり目の前で自分の目で見て感じたものを直接伝えるという作業でないと、画面を見て感じたことを、言葉や文字では絶対に伝わらないものだということを、今回改めて痛感しました。

本気で私の指導を受けいれるという選手の覚悟と、結果責任まで負うんだという私の覚悟がなければ、そう簡単に結果を残せるほど甘い世界ではないということです。

難しい立場です、チームの一員であれば、特定の選手だけのための指導に多くの時間を割くことはできないでしょうし、こうして個人で仕事をしていれば、正面切って組織の中に入っていくこともできない、本当に選手のために仕事をして結果を残すためには、どういう形が一番いいのでしょうか。

散々いろいろやってきて、今頃何を言っているんだと言われそうですが、一つ所にとどまって、次々と入れ替わる選手を相手に、波風立てず最低限のことをやっていればいいという仕事は絶対にしたくないし、個人相手では組織の壁があるし、自分ならこうできるという思いがあるだけに、忸怩たる思いにかられます。

ここまで自信を持って言い切れる根拠は何かと言われても、返事のしようがないのですが、私が誰にも負けないと思うところは、勝負に対するこだわりと結果責任に対する覚悟です。

中途半端な気持ちで仕事はしていません、私の能力を発揮させてくれるのは、選手の本気度以外にありません。

その熱さの度合いはすぐに分かります、言葉使い目の輝き、私の接する態度そのままが、私の目の前に立つあなたの本気度のバロメーターです。

私に一生懸命指導してもらったと思ってくれる人は、あなたが一生懸命だったからです。

私の熱さを感じた人は、あなたの熱さが伝わってきたからです。

私につまらないことを言われた人は、あなたがつまらないと思って私の前にいたからです。

一般の方の施術も同じです、自分の体と真剣に向き合い、本気で自分の体を改善しようという気持ちがない人には、私の気持ちも技術も届きません。

すべてはその瞬間瞬間の勝負です、無駄に時間を使いたくはありません。

少し気合が入りすぎました、私なりに思うことはたくさんありますが、結果にこだわり続けてきた結果、見えてきたものがあるということです。

最後に、トレーナーという呼び方、今までにも違和感を覚えたり他に自分のやっていることをうまく表現できる言葉はないかと考えたこともありました。

今朝ふっと思いついたのですが、私は自分が果たせなかった夢を、実現可能なポジションにいる選手や、本当にこれからその夢に向かって羽ばたこうとする若者に対して、大きな船が港に入港するときに先導して案内する「水先案内」に例えて作られた造語だと思いますが、山口百恵さんのヒット曲のタイトルである「夢先案内人」と呼んでもらえたら一番嬉しいのかなと思いました。

いくつになっても夢を追い続け、その先導役として同じ夢を見させてもらえる、いい仕事をさせてもらっていると思います。

(今日はiPadの調子が悪いのか、色を変えたり太字にしたりという加工ができません、いつも以上に読みにくくてすみません。)

正しい体の使い方を知りたいと言う前に

連休明け、少し休みボケの状態です。

日曜日は長女のところに幼稚園の運動会の応援にいき、昨日は帰省中の長男の嫁と1歳になる孫娘が遊びに来てくれて、すっかりおじいちゃんとしての役割を果たしていました。

運動会では、ほとんどの家族が3世代で応援に来ていますが、私と同じおじいちゃん世代の人と自分を比べると、この人たちと自分が同じ立場でここにいるのかと、ちょっとがっかりしてしまいます。

若いと思っているのは自分だけで、どうあがいてもそれは変わりませんが、年長さんの母親で運動会の役員さんをしているママ友さんから、「ご主人さんですか、いつも◯◯ちゃんにはお世話になっているんですよ」と、挨拶され悪い気はしませんでした。

長女が父ですと紹介してくれても、「お父さんお若いですね」と言ってくれ、よく言われるんですよと、会話が弾みました。

石田純一さんより年下ですから、幼稚園に通う子供がいてもおかしくはありませんが、普通そんな方は珍しいですよね。

まだまだ自立を果たせない息子がいますので、おじいちゃんとしての自分よりも、父親としての自分の方がウエイトは高いので、まだまだ老け込むわけにはいきません。

さて、20数年のキャリアが様々な出会いを生み、自分でも気づかないうちに多くの方に影響を与える人間になっているようです。

自分自身は全くそんな気持ちはありませんでしたが、我が道を歩き続け、少ない機会ではありましたが本を出させていただいたり、トレーニング関連の専門雑誌に文章を寄稿させていただいたことがあり、それらを目にした方々が、私の考え方に触れ影響を受けたということのようです。

私の言ってきたことは、すべてその時々に経験してきたことで、教科書的な一般論ではなかったと思います。

直接そのことに関して感想をいただいたりしたことは、これまでありませんでした。

私がこの仕事を始めた頃、そういう雑誌を一生懸命読みましたが、そういう方々に自分はこう思いますなどと、言えるほどの経験も知識もありませんでしたし、そんな勇気もありませんでした。

今振り返って、そういう方々の中に、私に対して大きなインパクトを残してくれた人がいたかといえば、残念ながらいませんでした。

立派な肩書きを持ち、有名な選手やチームの指導をされていることが紹介されていましたが、書いてあることは正しいのかも知れませんが、本当にそれで事足りるのだろうか、自分ならこう考えこうアプローチするのではないか、常にそういう気持ちで接していました。

そして数年の後、そういう雑誌を読むことすらやめてしまいました。

目の前にいる選手たちが何を求めていて、自分には何が出来るのか、足りない部分は何で、どうすればそれを身につけていけるのか、問題も答えもすべて目の前にあることに気づいたからです。

そしてその答えを見つけるためには、そういう教科書的な発想では何の役にも立たないことも実感しました。

故郷での開業当初は、普通に痛みへの対応が求められる仕事でした、それが早い段階で、痛みの原因は何か、どうすれば、こういう痛みと向き合わないで済む体になるのか、そういう根本的な問題へと意識が変わっていきました。

私を信頼してくださった方々からの要望もあり、あのまま宇和島で治療院を続けていれば、それほど広くないスペースでしたが、トレーニングの機械を入れて、今行っているようなものに近い、それぞれの体に合わせた動きづくりのトレーニングの指導と、体のケアの両面からサポートできる施設を作っていたと思います。

私が言うところの「正しい体の使い方」とは、持って生まれた人間としての能力を余すところなく利用して、体に無理をさせず楽に動けて、目的とする動作に対して効率良く動かせるようにすることです。

電化製品などには、必ず取扱説明書というものが添付されています、近頃はペーパーレスで詳しくはウエブで、という場合も多くなっていますが、最近は歳をとったせいか、そういうものを読み込むことがとても苦手になってきました。

我々人間はどうでしょう、生まれてから月日を重ね、人間として成熟した肉体に成長して行く過程の中で、そういうマニュアル的なものは何一つ与えられていません。

育って行く環境の中で、自然と身について行くのものです。

先日もここを訪れて、トレーニングを行ってくれたサッカー選手は、お父さんがエジプトの方だそうで、顔はどう見ても私たちとは違っていますし、遺伝的にはもっと背中の筋肉をうまく使えるはずだと思うのですが、日本で生まれ育った彼の体は、外見的には素晴らしく発達した体ではありますが、肝心な広背筋に関しては、我々と同じレベルの動きしか出来ていませんでした。

遺伝的な要素はとても重要で、どうにもならない部分もありますが、彼の例を見ても、後天的な要素の方がはるかに大きいような気がします。

ただ彼の場合は、先天的に与えられた要素がありますので、ここに正しい意識で正しい刺激が入れば、必ず目的とする動きを獲得することができると思います。

ここを訪れてくれる人の大半が、私に「正しい体の使い方を教えてください」という要求をされます。

私が不思議に思うのは、今まで人間として普通に生活してきて、なぜ急に正しい体の使い方、などという言い方をするようになったのだろうと思ってしまいます。

自分の体が、今現在動いてくれていることに対して、これは間違った使い方だから直さなければならないと、本当に思っているのでしょうか。

スポーツ活動をしていて、他の上手な選手に比べて自分の技術が上達しないことを、自分の体そのものの動き方のせいにしているのではないでしょうか。

ある意味本末転倒ではないでしょうか、生まれてからずっと一生懸命動き続けてくれている体に、感謝こそすれ、自分の体は正しい動きをしてくれないと、文句を言うことが果たして正しいことなのでしょうか。

スポーツを指導している人の中にも、自分の指導は間違っていない、上達しないのは本人の問題と開き直っている人もいるのではないでしょうか。

その部分を、単に素質がないだとかセンスがないだとか、指導に対する理解力がないとか意識が低いとか、すべて選手本人の問題にしているのではないでしょうか。

なぜこの選手はこの動きが出来ないのだろう、この技術が身につかないのだろう、講習会に行って指導者としてのライセンスも取って、自分はこんなに努力しているのに、そんな声があちこちから聞こえてきます。

そして気付いたことが、技術以前の体の使い方に問題があるのではないかということになるようです。

そしてネット等を通して調べて行くうちに、私の存在を知り私の考えに触れて行くうちに、自分たちが指導されたものだけでは足りないという事実に辿り着くようです。

私が西本塾でお話ししている、スポーツの世界で当然のように思われてきた、技術と体力は別物という考え方の弊害です。

私はサッカーの技術や戦術を教える立場だから、体力のトレーニングのことは知らないとか、体力そのものの概念も、数値で表すことの出来る客観的な評価に限られていました。

人間の体の動きそのものを見る目を養うことから逃げて、データで管理しやすいものを信じることの方が正しい判断であるというのが今の風潮です。

サッカーでも、1試合で走った距離を個人別に集計して、運動量を図るということが行われています。

本当にそうでしょうか。

超一流と言われる選手たちの身のこなしは、そういうデータだけで語れるものではありません、そんな時に持ち出される言い方が、「だから彼らは凄いんだよ」の一言です。

では他の選手にはまったくNOチャンスなのでしょうか。

違うと思います。

普通に生活して行く上ではまったく支障はありませんが、残念ですが我々日本人が普段最も意識して使えていない部分と、それをうまく使いこなしているという意識がないことが一番問題なのです。

ここにその答えを求めて個別指導を受けに来てくれた選手たち、小学生から一般の方まで、老若男女を問わず大きな変化を感じて帰ってくれるのは、その部分なのです。

人間が動くというのは、現実にはどの部分が動くことなのか、それを可能にしてくれているのは、どの部分を中心とした全身の連動動作なのか、出来ないことをやれと言っているわけではありません。

「普段意識していなかったけど、こうやって動けば確かに動きやすいし楽に動けるよね」と、体と頭が納得してくれれば、それから後はそういう風に体が動いてくれます、当然効率の良い動きを行おうとするはずですから。

「なんで今までこんな風にしか動けなかったんだろう」、本来の動きを知ってしまうと、過去のそういう感覚すら思い出せなくなってしまいます。

屈筋に頼る動きがどうしてダメなのか、伸筋を使うという感覚はどういうものなのか、体感していただくより他に方法はありません。

過去何人もの指導者の方から、どうして指導者の養成カリュキュラムに、こういう「体そのもの」に関しての時間が割かれないのだろうという、というご意見をいただきました。

いつかそんな日が来るでしょう、その時に西本塾で学んでくれた若い方々の出番が待っていると思います。

私は今、一人でも多くの方々に、お互いの体を通して、人間本来持って生まれた能力を余すところなく利用して、無理なく無駄なく動ける体になってもらうことで、それぞれのスポーツでレベルアップを図り、ケガをしにくい体になってもらいたい、そんな活動をしていきたいと思います。

西本塾でも、回を重ねるごとに説明の仕方というか、指導のレベルが上がっているように思います。

来月の開催に備えて、改めて頭を整理して行こうと思います。

理不尽なこと

今日はスポーツの現場だけではなく社会全体に蔓延る「理不尽なこと」について書いてみたいと思います。

私がスポーツ(最初はソフトボールでした)に真剣に取り組み始めたのは、小学校3年生の時でした。

私の生まれ育った愛媛県の宇和島市という町はスポーツが盛んで、大人になると男性はソフトボールや軟式野球のチームに複数所属している人がたくさんいました。

勤めている会社のチーム、友人どうしで作るチーム、早朝野球のチーム、県大会や全国大会を目指す本格的なチーム、私も会社員を辞めてふるさとで開業していた2年間は、2着のユニフォームを持っていました。

その頃行っていたスポーツは、友人どうしや地域の方々とのコミュニケーションであり、あくまで楽しむことが目的で、悪い意味での上下関係など無縁のものでした。

小3で始めたソフトボールは、まず小学校単位で住んでいる町内会ごとにチームを作り、トーナメント戦で学校代表を決め、市内の小学校の優勝チームが集まって、決勝大会を行うという本格的な大会でした。

私の住んでいた町は毎年上位に入り、本番の大会が近づくと選手や親たちだけでなく、町中の人が練習をみに来て応援してくれるほど熱の入ったものでした。

町内の魚屋のお兄いちゃんが監督で、今考えると、小学校の、それも町内会のチームが、よくこんなに練習したなと思うほど厳しい練習をしていましたが、辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。

それは子供ながらに、厳しい指導をしてくれる指導者に対して、信頼と感謝の気持ちがあったからだと思います。

さらにチームメイトは、気心の知れた幼馴染たちばかりですから、よほどのことがなければ揉め事など起こるはずはありませんでした。

私の人生で、スポーツを心底楽しいと思って取り組めたのは、この小学生時代だけだったように思います。

ソフトボールに水泳、陸上競技とポートボール、学校大会が行われる全ての種目に代表選手として出場し、結果を残すことが出来ました。

指導していただいた教員の方や仲間たちに、本当に恵まれていたと思います。

それが中学校に入ると環境が一変します。

極端にいえば、誕生日が1日違うだけの上級生の言うことが絶対という「理不尽」という言葉に直面していきました。

日本がスポーツというものを学校体育に取り入れた時から、選手と指導者の関係は絶対服従が当然とされました。

そのはけ口として、先輩から後輩への理不尽な行動が行われるようになったのだと思います。

戦時中の日本軍の体制も、おそらくそういうもので、それが未だに続いているのだと思います。

人間はそれぞれみんな平等であるべきです、しかし、人間が2人いれば、どちらかが優位に立とうとして上下関係を作ろうとし、3人集まれば、2人が組みになって1人を疎外して自分たちの優位性を示そうとします。

それが集団となり組織となり国という単位となって、戦争という悲劇まで産んでいきます。

これは過去のことではなく、今この瞬間にも戦火の中に生きていかなければならない人たちがたくさんいます。

小さな集団も同じです。

依然として無くならない「イジメ」の問題です。

私がスポーツトレーナーとして、選手に対して言うところの、本当の平等を履き違えていると言うこととは意味が違います。

トップレベルのチームで戦力にもなっていない新人選手と、なんとしても試合に出場して欲しい中心選手にかけられる私の時間が同じわけがありません、それを自分もチームの一員なのにと言う考えは違うよと言っているのです。

私が高校時代、最終的に野球を辞めてしまった理由も、やはり「理不尽なこと」に耐えられなかったという一言につきます。

以前には、大学の体育会の運動部を卒業した人間は、社会に出てからも性根が座っていて、どんな困難にも耐えられる的な発想からか、一流企業への就職が有利になるなどと言われていました。

社会に出れば理不尽なことばかり、理想や夢みたいなことなど一切通用しない、白いものも黒いと言わなければならないのが大人になるということだと、それが当然のことのように言う人もいます。

子供のイジメ問題や、運動部内での過剰な上下関係によるイジメや暴力の問題が、全くなくなっていかないのは、大人の側にそういう意識が消えないからではないでしょうか。

「今の子供達は我慢することを知らない」と。

私は我慢という言葉の使い方が、全く違うと思います。

子供の頃から正しいものは正しい、間違っていることは間違っている、もちろんそれだけでは通用しないこともある、そんな時こそなぜそうなのかということが納得出来るような答えを見つけることが大事なのです。

仕方が無いでは済まないと思うのです。

年長者を敬うことは当然のことです、それは、こうして毎日生きていることだけでも大変なことだからです。

しかし、1日1日をどう生きて来たかということの方がもっと大事なことです。

後輩に信頼してもらうためには、1年多く努力して来たのだという、自分なりの自信が必要です。

言うことを聞かない後輩に対して、同級生が徒党を組んで、絶対服従を課すなどという行為は、一人一人の努力と自信のなさの裏返しに過ぎません。

子供だから許される、学校生活の中の問題だから許される、そんな問題ではないのです。

そういうことが許されてしまうから、大人になってもそれが続いてしまうのです。

私のお世話になっている方に、怒った顔も見せたことがない、声を荒げたこともないという、仏様のような方がいます。

そういう方こそ、これまでの人生の中で理不尽な思いを嫌という程経験されて来たのだと思います。

そういう経験を経て、私が知るその方の人間性が育まれて来たのだと思います。

逆に同じくらいの年廻りの方で、いろいろなことを経験して来て、もう何も怖いものはないと公言し、何かにつけて大きな声で人を罵倒する方がいます。

はたから見ていて、こちらの方が悲しい気持ちになります。

私自身、32歳で会社員を辞めるまでの8年間在籍した会社で営業の仕事をしている時、「理不尽なこと」を嫌という程経験しました。

取引先の担当者の態度は、本来ならば許されるはずのないことがたくさんありました。

そこで我慢出来たのは、やはり家族のためにという想いしかなかったと思います。

32歳から現在に至るまで、普通の人に比べれば、私は理不尽なことと感じたことを受け入れることをしないで来られたと思います。

ただ自分からそこを離れただけですが(笑)

少子化が問題となり、スポーツを行う子供の数も減ってきています。

コミュニケーションのスタートとなる兄弟姉妹の数も減り、人との関わり方がうまく出来ない子供も増えてきていると思います。

年上が威張るのが当たり前、後輩に何をしてもバレなければ咎められることはない、いつになったらこんなつまらない発想がなくなるのでしょう。

オリンピック選手レベルにまで、選手同士のイジメや、指導者からの過剰な暴力やセクハラなど、スポーツのイメージとは程遠いことが日常的に報道されています。

高校野球で、こういう問題が表面化され、処分されたことが報道されても、全く他人事のように同じことが繰り返されています。

いったいなぜでしょうか、誰の責任でしょうか?

子供達だけのせいではないと思います、悪いものを悪いと言えない大人にこそ責任があると思います。

トレーニングだ戦術だと、指導者としての結果を求めて行動する前に、まずは自らの行動を戒め、子供達の心を指導出来てこそ、初めて指導者と言えるのではないでしょうか。


保護者が何もしてくれない指導者に対して意見すると、心象を悪くして試合に使ってもらえなくなるのでは、などという心配から声を上げられないことをいいことに、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたり、自分の仕事はスポーツを指導することで、そんなことまで引き受けたつもりはないとうそぶいている指導者もいます。

何年何十年と同じことが繰り返されている現状に、一言言いたくなりました。

体の仕組みを知るということ

32歳で会社員を辞め、この仕事に就いてから 24年の歳月を数えました。
今の状況は、その頃の私には想像も出来ないようなものとなっています。

日々目の前に迫ってくる問題に対し、自分には何が出来るのか、何をしてあげられるのか、そのことばかり考えてきた日々の繰り返しでした。

仕事を始めた頃に関わった選手たちは、すでに現役を引退し、それぞれの道に進んでいますが、そのうちに何人かは指導者として立派な成果を上げている人間もたくさんいます。

私の立場は何年経っても変わることなく、生涯一トレーナーとしての人生を歩み続けていますが、そんな中、過去に関わった選手たちの子供達が成長し、親子二代に渡って私の指導を受けるという例がいくつかみられるようになりました。

まだ幼かった頃の彼らの姿は記憶していますが、父親を凌駕するような体格に成長した彼らを見るにつけ、過ぎ去った歳月を感じています。

父親の後を追うように、スポーツに熱中する姿に、微笑ましくも羨ましい想いを感じます。

生涯一職人を自認し、後継者どころか他人に対して、自分の技術や経験を教えるなどということは、全く頭にありませんでしたが、今こうして自分の考えを発信し、西本塾等を通じて、多くの人に伝えることを行い始めるようになりました。

今となっては遅きに失した感もありますが、3人の息子のうち1人でも私の仕事に興味を持ってくれていたらという気持ちも少し感じるようになりました。

とはいえ、これほど先の見えない仕事はなく、まさに不安定この上ない状況の繰り返しに、我が子を引き込むことは出来ないという気持ちの方が大きかったのも事実です。

親子で同じ夢を追いかける何組かの姿を見るにつけ、やはり羨ましい気持ちが強くなっています。

さて、老若男女、スポーツ選手から一般の方を含め、この一年だけでも新しい出会いがたくさんありました。

それぞれの立場で、私から吸収しようとする内容も様々なわけですが、やはり一番基本となることは「人間の体の仕組みを知る」ということに尽きると思います。

そう言うと解剖学や生理学といった、医学の基本を思い浮かべる方がほとんどだと思いますが、例えば筋肉や骨の名前というのは、後から人間が便宜上名付けたもので、文字や会話の中で共通認識が出来るための記号のようなものに過ぎません。

筋肉の起始や停止、収縮した時の関節の可動域の角度などを知識として覚えることが、体の仕組みを知っていることではないと思っています。

人間も地球上に存在する生命の一つで、生命を維持し種を存続していくための体の使い方というのは、自然に備わっているはずです。

二足歩行になって知能が発達した為、本来の動物としての自然な動きを離れ、こうしなければならないと思い込まされている部分がたくさんあります。

その一つが、私が提唱している「歩く」という動きであり、その発展系としての「走る」という動きの中に見られます。

腕はこうやって振る、足はこうやって使う、こうしなければならないこうでなければいけない、いつどんなタイミングで教えられたか分かりませんが、いつの間にかそれが唯一無二の正しい使い方であるかのような錯覚に陥っています。

私が西本塾で伝えているのは、筋肉というものにはどういう仕事が与えられているか、与えられた役割をきちんと全う出来ているか。

さらに根っこを掘り返して、そもそも筋肉とはどういう組織なのかという根源に迫り、収縮するというメカニズムと、体が動くという関係など、教科書的な知識ではなく、動物として人間の体はどういう風に動くことが出来るのかを知ることこそが、「体の仕組みを知ること」だという考え方を伝えています。

犬や猫が、歩き始める時にはどこを意識して使っていますとか、ライオンが獲物を狙って走り出す時には、少しストレッチをして筋肉に負担をかけないようにしています、などという意識があるはずはないのです。

本能の赴くままに、生きていくために、持って生まれた最良の体の使い方を、自然に行っているだけなのです。

私がスポーツ選手に対して最初に行うことは、人間の体はこういう風に出来ていて、こういう分に使えば効率良く働いて、自分の持っている能力を十二分に発揮してくれるんだよ、ということを理解してもらうことです。

一度や二度の説明で理解出来るはずはありませんが、時間をかけ回を重ねるたびに、実際の体の動きと最初の説明がリンクして、本当の意味で正しく伝わる指導になっていくようにしています。

ボールはこうやって蹴らなければならない、ディフェンスの姿勢はこうでなければならない、ボールを投げるためには手首はこうやって使わなければならない、例をあげれば切りが無いほど出てくる様々な思い込みを、「人間の体はね、こういう動きが必要な時はこういう風に動いてくれるように出来ているんだよ」と、少しずつ人間本来の自然な動きに変えてあげるという作業をしていくのです。

なぜ屈筋ではなく伸筋が大切なのか、人間が動くことの本質である骨盤と背骨を動かすために必要な意識はどこにおけば良いのか。

歯を食いしばって一生懸命がんばっているように見える、自他ともに満足感が得られる筋力の発揮方法がなぜダメなのか。

ちゃんと聞いてくれれば、解剖学の試験対策に割く時間の100分の1くらいの時間で理解出来るはずです。

そうやって根っこの部分がわかれば、枝葉のことは、ちょっと後ろを向いて教科書を開けば書いてありますし、ネットで検索すれば立体的に見ることが出来るアプリもあり、現実私も使っています。

人間の動きそのものが見えるようになれば、痛みに対応する施術行為であっても、能力向上のトレーニングであっても、その方法論は自ずと見えてきます。

○○トレーニングに当てはめるのではなく、今、自分の目の前にいる人間の体に、何が必要で何をして欲しいのかわかるようになります。

それが体の仕組みを知っているということす。

なんとかしてあげたい、そう思わせてくれる選手が、次々とやって来ます。

私自身、まだまだ頑張らなければならないようです。

何が必要か

昨日行った、西本塾を深める会、3名の参加者とともに充実した時間を過ごすことができました。

西本塾自体もそうですが、二日間の西本塾を受講して、それぞれのフィールドに戻り、学んだことを応用できたこと出来なかったこと、また自分自身がどれほど理解できたのかなど、様々な想いを持ちながら時間を過ごし、もう一度私のところに来て改めて学びなおそうという人たちですから、心構えというか真剣さは想像以上のものがあります。

他の勉強会や講習会というものが、どういう形で行われているのか知りませんが、指導する側と受ける側の双方が、こんなにも真剣に向き合うことは少ないのではないでしょうか。

回を重ねるたびに、その思いが強くなり、責任の重さも感じています。

今日は祝日で、本来はお休みですが、6月の終わりから7月の頭にかけてここを訪れてくれた、現役のサッカー選手が、完全復帰を目指してトレーニングに来てくれました。

体のあちこちを故障し、手術やリハビリを繰り返し、そのたびに本当にこのやり方でいいのだろうか、自分にとってベストな方法なのだろうか、遅々として進まない回復状況に、選手として納得のいかないものを感じていたようです。

それが縁あって、私のブログにたどり着き、私の考え方に触れ、そして共鳴する部分を感じたことで、広島行きを決意したそうです。

最初に送られてきたコメントの文章から、彼の思いは十分に伝わってきました。

最初に来た時の二日間で、今後の展開は私なりの予想ができましたが、それはあくまでも私が身近にいて、継続して指導してあげられたらという但し書きがつくものでした。

現実には、言葉は悪いですが身近にいるスタッフに対し、100%の信頼を感じられないからこそ、私のところへ来たのですから、二日間みっちり教えたとはいえ、その後の指導がきちんとなされなければ、私の予想通りに事が進んで行くとは思えない部分もありました。

しかし彼は、私の指導をきちんと理解し、自分なりに西本理論に基づいたトレーニングを継続してくれたおかげで、この数年来できなかった動きを取り戻し、悩まされていた痛みとも少しずつ縁を切ることができているようでした。

そして今回のトレーニングで、サッカーができるためのスタミナという部分を強化したいという目的も持ってきてくれました。

動きづくりのトレーニングをもう一度行うことで、しっかり身につけたいという部分はもちろんでしたが、フル出場に向けてのスタミナづくりという概念を、どんなトレーニングが解消してくれるのかという部分が、大きなキーワードになっていました。

私が昨年関わったチームで、いわゆる素走りというものを行わせなかったことには大きな意味があります。

サッカーという競技の素人ではありますが、その私から見てサッカー選手に必要なスタミナという概念は、けっして素走りから得られる効果で改善できるものではないと思ったからです。

20分走が何分何秒で走れたとか、3本繰り返せたとか、一般生活者から見れば、さすがはサッカー選手ということになるのかもしれませんが、それはサッカー選手としての能力を評価する物差しとは、なりえないものだと思います。

何も考えずに時間の経過と距離をこなしていくような走る時の意識は、サッカー選手にはないはずです。

動きだしの感覚、スピードの上げ下げ、ストップとターン、などなど360度様々な要素が必要になります。

当然そこにプラスしてボールを止める蹴るという、サッカー選手として当たり前の要素が加わります。

ボールを使ったトレーニングを行わせていても、例えばマーカーやコーンといった、道具を使うより、人間が一人でも入って邪魔をすることで、負荷は大きく変わります。

実際のサッカーの動きをイメージしながらのトレーニングでなければ、トレーニングのためのトレーニングと言われても仕方がありません。

現実そういう発想で、復帰の目安にしている指導者は多いと思います。

私なりに深く考え、サッカー選手として必要なスタミナを作るためのトレーニングとして考え、取り組んできました。

午前中の室内トレーニングも、かなりハードだったと思いますが、午後のグランドでの練習は、彼にとってかなりきついものだったと思います。

しかし彼は一切根をあげず、トレーニングについてきてくれました。

きちんとトレーニングの意味を話しながら進めていますが、私に対する信頼は厚く、言われたことをしっかりやろう、私の指導したことをしっかりマスターして帰ろうという強い気持ちが感じられました。

グランドでのトレーニングは、ボールを使ったドリルを含め、約80分続きましたが、途中一度も痛めていた膝をかばう様子もなく、何の支障もなくトレーニングに集中できていました。

本当の意味でのサッカー選手のスタミナは、やはりゲームに出てはじめて養われるし、確認できるのではないでしょうか。

スタミナの回復状況を判断するためには、距離や時間という客観的なものも必要なのかもしれませんが、相手の動きに対応しながら動き回って走り回って、ボールを追ってボールを蹴って、そういう状況に近いトレーニングのメニューを与えてこそ、選手も本気で取り組んでくれるし、復帰を判断する材料になると思います。

メンタルという言葉は好きではありませんが、人間の体を動かすのは、心と心の信頼関係ではないでしょうか。

そして私を本気にさせてくれる、選手の本気度が一番大切だと思います。

会うのは今回で二回目ですが、私のところに二度来てくれる人の本気度は、私の想像を超えるものがあります。

誰かのためにという気持ちが、これほど一点にフォーカスできれば、私の力以上のものが発揮できているような気がします。

そのことで私自身の人間力を磨いて行けているようにも思います、本当にありがたいことです。

歩いてみました。

週末に行う「深める会」、今回は参加者の希望が、歩く走るの体の使い方をもっと学びたいということで、天気も良さそうですし、屋外での実技の時間を増やそうと思っています。

普段から、立っている時も歩いている時も、周りの方からは姿勢がいいですねと言っていただきます。

よく聞かれる言い方ですが、「背中が丸く猫背にならないように、胸を張って背筋を伸ばして良い姿勢で歩くようにしています」 というものがあります。

そういう意識で歩くと、普段と違う筋肉の使い方をしてしまいますから、すぐに疲れてしまうことになってしまいます。

歩くという運動をする以前に、きちんとした姿勢を維持してくれる、正しい筋肉の働きを作っておかなければ、その場だけの付け焼き刃では体も言うことを聞いてくれないのは当たり前です。

昨日は少し早く家に帰って、すぐ横の元安川の河川敷を歩いてみました。

交通量の多い道路を避けて、河川敷の遊歩道を自転車で走る人(これって認められているのでしょうか、少し危ないと思いましたが )、犬の散歩をする人、ウォーキングをする人、ジョギングをする人、ボランティアで雑草の草抜きをしている人、様々な方々の姿が見られました。

そんな中、私の提唱する歩き方と走り方の、動きの確認をするために1時間ほど歩いてみました。

もう何も考えなくても、無意識のうちに他の人とはちょっと違う歩き方になっているのですが、改めて一般の方の歩く姿をみて、自分とどこが違うのか、それがどういう意味を持っているのか、じっくり体との対話を楽しみました。

自分は当たり前に出来ていても、それを他の人に伝えることはとても難しいことです、今それを実感しています。

私も初めから今のような意識で歩いていたわけではありません。

それがどういうことでこうなって行ったのか、正直自分でも時系列を整理して説明することは出来ません。

私の動きを見て、どこをどう使っているのか、どういう意識で体を使っているのか、そういう質問に対して、少しでもきちんと答えることが出来るようにしておかなければなりません。

他の人と同じように、腕を大きく振って大股で胸を張って颯爽と歩く歩き方と、今の自分の歩き方を交互に行って比較してみると、明らかに従前のは歩き方は、腕が重く感じて肩が疲れます。

そして、歩幅が広がる分、蹴る足のふくらはぎに力が必要なことが分かり、やはり疲れを感じます。

いわゆるウォーキングをしている人たちは、筋肉を収縮させることによって得られるカロリーの消費が主な目的でしょうから、 これはこれで間違ってはいないと思います。

しかし、そのことが原因となる足首や膝の障害という弊害が起こることも覚悟しておいた方が良さそうです。

数十メートル続けると、私の体は拒否反応を起こし、自分の歩き方に戻ることを要求します、何度繰り返しても同じでした。

途中ほんのわずかですがアップダウンの個所があります。

歩き方の違いによる体の負担は、下りはもちろんですが、登り傾斜の時にはっきりと感じられました。

この感覚は今まで気にしたこともなかったので、自分でも驚きました。

同じ個所で何度か繰り返してみましたが、従前の歩き方では登り傾斜を直に感じますが、私の歩き方に変え目をつぶってみると、同じ場所を歩いているのかと思うくらい楽に登っていけました。

自分の足しか移動手段を持たなかった昔の人たちは、きっとこういう意識で体を使っていたのだろうなと、改めて思いました。

体に無理をさせ、早く疲れてしまう体の使い方を良しとするはずがありませんから。

今の時代は歩くという行為の目的が、移動の手段ではなく、自分の足で歩くことが少なくなったことを補うための運動として行うものになってしまったのですから。

昨日はとくに前腕の動きを意識してみたり、肩の運動方向を意識してみたり、骨盤の上下動を意識してみたりと、様々なポイントに絞って全体の連動にどう繋がって行くかを実験してみました。

同じ動きを指導するにしても、それぞれの人に合わせて声を掛けるポイントを変えなければなりません。

私の唯一の師である渡辺栄三先生に教えていただいた、肘を曲げるという単純な動作であっても、実際に行っている人の意識は全く違うもので、見た目で判断出来ないし強制することもできないという、人間が動くということの不思議さを感じてます。

ビデオをみて形を真似ても、同じことが出来ないのはそういうことです。

自分の感覚を改めて確認し、アドバイスの引き出しを増やせるようにしました。

新しい発見もありましたし、こういう風に伝えれば分かりやすいかなという実感もありました。

それにしても人間の体は意識を少し変えるだけで、こんなに色々な動きをしてくれるのだと我ながら驚きました。

その場足踏みから、移動するための歩くという行為、移動したい場所に早く到達するための走るという行為、やはりこれが基本なのだと思います。

陸上競技であれ他のスポーツであれ、人間が移動するということをもう一度基本から考え直して見るのは本当に面白いことです。

自分だけが知っていて、自分だけが出来て、それで良かったのが、それを知りたい人がいて、それが役に立つ分野がたくさんあって、自分が広めなければこのまま埋れてしまうことが分かってしまいました。

微力ではありますが真剣に伝えていきます、そしてこうやって発信もしていきます。

内容とは離れますが、11月に行われる、二組の結婚式の招待状が届きました。

一組は 西本塾に参加していただいた方、もう一組は以前に指導していた三菱重工広島硬式野球部の元選手です。

長く若い選手を相手の仕事をして来ましたが、そういう席に呼ばれることは滅多にありませんでした。

ここ数年は全く記憶にありません、それが偶然にも同じ時期に二組からの招待状が届き 、少し驚いています。

それよりもあの選手がそうかと、嬉しさの方が大きいです。

これから人生を共に歩む伴侶を見つけて、しっかりと歩み続けて後しいと思います、もう父親の世代ですから、そういう気持ちになってしまいます。

おめでとう、二組のこれからに幸多かれと祈ります。

走ること、質問に答えて

有難いことに、コメントが続き、今日はその答えとなるような内容を書いてみたいと思います。

ただ、お一人の方は西本塾で直接指導をした方、もう一人はこのブログを通して文字だけの説明で実践している方という、大きな違いがあります。

まずは、ちょうど一年前に何回かに分けて書いた、カテゴリ「走るという行為」を、じっくり読み返してほしいと思います。

私が言っていることは、たんに走り方という技術の問題ではなく、なぜこういう発想にたどり着いたのか、どうしてこういう走り方を提案しているのか、まずはその部分をしっかり整理してから、実際の動作を練習してほしいと思います。

聞き飽きている言葉だとは思いますが、枝葉の方法論の話ばかりをされると、結局私から聞き出したいのはその部分だけなんだなと淋しい気持ちになってしまいます。

本当に過去記事を読んで、私の走りに対するイメージが共有できていれば、根っこの部分は分かってもらえるはずで、その先はそれこそ自分で好きなようにやってくださいと、言い放ってしまえばいいことで、細かいことを文字で説明できるは訳はないと言い切ってしまうこともできます。

しかし、私の言っていることを実践していただいている方々に対し、あとは好きなようにやってくださいとも言いにくいので、もう少し言葉の説明を加えたいと思います。

お二人に質問の趣旨は、私から見ればまったく同じものです。

上手く走れるようになるコツは、一言で言えば「骨盤(股関節)と肩甲骨の、背骨を介しての連動をいかに滑らかにするか」ということになります。

望月さんの質問にある、右の上腕骨と右の股関節の関係性ですが、フライングバックトレーニングの片足立ちパターンで、同側パターンと対角線パターンの二つを行いましたが、質問されたことは、この右右の同側パターンに問題があると考えられます、という答えが出てきそうなのですが、私は別の問題だと思います。

人間の意識は、瞬間的には一か所しか認識できないという話は西本塾のさいにも、実技を交えて説明しましたが、意識されていない部分にも負荷はかかっているという説明もしたと思います。

広背筋をメインに行うベンチプレスを行っている時にも、もちろん大胸筋は収縮していますし、股関節メインで行うスクワットを行うさいにも、大腿四頭筋はしっかり収縮しています。

意識を変え、フォームを工夫するだけで、メインとなる筋肉が変えられることは体験していただけたと思います。

走るという行為を行うとき、もろもろの条件がそろって初めて股関節の自由度が確保され、無理なく足が振りだされるという状態が作れます。

かと言って、下肢の筋肉が全く収縮していないかと言えば、もちろんそんなはずはありません。

従前の走りに比べればという比較の問題で、圧倒的に足で地面を蹴って推進力を得ている、という感覚が少ないと言っているのです。

だから疲れにくいし、足の負担も少なく故障も少なくなります、でもまったく蹴っていないかといえば、やはり蹴っています。

しつこいようですが繰り返すと、「今までに比べて蹴って進んでいる感覚が少ない」ということを理解してください。

ということはどういうことですか望月さん、いったん文章を読むことをやめて、この先の答えを自分で考えてから、次の行に進んでください。

どういう答えが出ましたか、私は望月さんの左右の蹴る力の微妙な違いが、股関節から肩甲骨への連動に違和感を生んでいるのだと思います。

従前の走り方では全く気にもしていなかった部分だと思います。

左右の蹴る力の差、左右のストライドが1ミリと違わない選手などいないと思います、よほど大きな違いがあれば別ですが、足で地面を蹴って推進力を得るという走り方では、筋力の差など様々な要素で違うことが、ある意味当たり前だったのです。

ところが、広背筋のリードで、骨盤を上下させ、上腕骨の自然な動きと連動させるこの走り方では、従前の蹴るという動作が、その連動を邪魔してしまうことになります。

結論です、一か月やそこらの期間で、私と同じような感覚で走れるようになると思ったら大間違いです。

自分の体と対話しながら、自分が一番いいと思う動きの連動をできるようになるまで練習してください。

矢継ぎ早に疑問点を質問していただくことはやぶさかではありませんが、そんな簡単に身につけられる感覚ではないことだけは言っておきます。

ただ100点を目指す必要もありません、望月さんなりの連動を探すのです、いつかその走りを見せてください。

阪井さんからの質問ですが、ここまで書いてきたことがそのまま答えになると思いますが、スピードの変化、私の言うギアチェンジの意識は、「骨盤(股関節)と肩甲骨の背骨を介した連動を、いかに滑らかに変化させられるか」ということです。

その結果として、骨盤の上下動が速くなり、上下の動きが楕円に変化することで、動きが大きくなります。

けっして単純な上下運動ではありませんので、上下のストロ-ク幅が広がるという感覚ではありません。

上腕骨の動きも同じです、腕を振るとか振らないとかいうことではなく、広背筋によって自然に後上方に引かれる感覚を、作為的に操作することなく脱力していれば、スピードアップとともに、外見的には、「なんだ腕を振っているじゃないか」という風に見えているだけです。

実技で私の肩甲骨の動きに驚かれる人が多いですが、「連動に任せている」からこその動きなのです。

「そんな簡単なものじゃないよ」と、厳しいことも言いましたが、ではどうやってその感覚に近づいていくのか、そのことを書いておかなければ、今日の答えにはなりませんね。

皆さん実際の走るという局面での動きに目が行ってしまっていますが、一番大切なのは実技の際に皆さんが一番難しそうな顔をして、ぎこちない動きに終始した「その場足ふみ」の動作です。

もう一度説明します。

両足を肩幅程度に開いて立ちます、1センチ1ミリでも背が高くなるようつま先立ちになってください。

その時に背中を丸める人はいませんよね、一番広背筋が正しく収縮できる準備ができています。

その時両方の大腿骨の大転子部分(足ふみをした時動いているのが分かる左右のでっぱり)に手のひらをあててください。

その姿勢から、つま先を付けたままで踵だけでを上下させて足ふみをします、足首と膝を柔らかくして、膝が前後に動くようにしてください。

手のひらが大転子部分にあるため、肘が少し曲がっていることで、上腕骨が引き上げられることが分かりやすいと思います。

良い姿勢を維持したまま足ふみを繰り返してください。

その時の私の肩甲骨の動きがあまりにも大きいので、皆さんが首をかしげてしまいますが、まずは肩でいいですから、骨盤の上げ下げと肩の上げ下げを、同側で同調させてください。

これがすべての基本です。

しかし、これが一番難しく楽しくもないので、次のドリルに進んでしまいますが、極論すれば、これだけをしっかりやって、体の連動という感覚を頭と体が理解してくれさえすれば、後のことはすべてできるようになるのです。

というか、それが体の中に仕組まれている自然なからくりなのです。

皆さん聞いたことがあると思いますが、「コツを教える、コツを覚える」という言い方をしますね、その時の「コツ」こそ、まさに「骨(コツ)の動きを体に教える、覚えさせる」ということそのものなのです。

それが私の言っている「動きづくりのトレーニング」「骨を動かす」ということなのです。

その場足ふみのスピードが上がると、大転子に触れていた手のひらが、スピードを上げるために上下に大きくこすれて、大転子を離れます。

これが実際に走った時に、腕が振れて見えることにつながります。

さらに背中全体がうねるように大きく動き、もうこれ以上その場で足ふみを続けることが難しくなるほどのスピードを感じた時に、つけたままですよと言っていたつま先が、地面を離れることを許すと、自然に前に進んで行きます。

そしてさらに動きが速くなり(この時はうねりの回転数が上がるという感覚ですが)、気がつけば走り出してしまったという感覚になります。

だから走り方がどうの、腕の引き上げがどうの、スピードの変化は、どこでこんなトロールするのかなどという部分の問題ではなく、すべては連動を滑らかにコントロールするという感覚なのです。

それを感覚的に身に付けることができたからこそ、大久保選手は「いつ動き出したのか分からない、無駄な動きがない、一人動きが違う」などの表現をされるような動きができるようになったのだと思います。

今現在、川崎でどんなトレーニングの指導がされているのか、私にはまったく分かりません。

阪井さんが指摘していただいたような変化があったとすれば、私が提唱したトレーニングが継続されているのかもしれません。

走り方の問題でも同じですが、このトレーニングを行えば必ずこんな効果があるとは言えません。

正しい意識を持って行ってくれなければ、ただ似たようなことをやっているだけということになってしまいますから、当然効果にも個人差が出てきます。

それでもたんなる体作りのトレーニングを行っていることに比べれば、頭の理解はなくても体は正直に反応してくれますから、やらないよりはずっといいと思います。

短い期間でしたが、選手たちの体のどこかに残っていてくれて、チームとしての取り組みとして継続されていれば、こんなに嬉しいことはありませんが、実際のところはまったく分かりません。

私のトレーニングはある意味地味なトレーニングですが、しっかりとした理解のもと意識を持って継続すれば、技術的な部分にも必ず良い変化があります。

阪井さんのような、選手の変化を指摘していただくと、またそういうレベルの選手たちを指導してみたいという気持ちが、うずうずしてきますね。

お二人の答えになったでしょうか、すべては根っこの部分の大切さに気付くことから始まります。

根っこを掘る作業を実践していただき、また質問をお寄せいただければと思います。

サッカーとの関わり

昨夜の、新生サッカー日本代表とウルグアイとの試合、リアルタイムでテレビ観戦しました。

ツイートもしましたが、私の視点は戦術やボールを扱う技術といった、本当にサッカーが好きだったり、経験者だったり、現在関わっている人たちの様な見方はできません。

その代り、個人個人の動きそのものや、チーム全体の流動的な動きなど、おそらく普通の人があまり気にしていないような部分ばかりを見てしまっていると思います。

今流行の言葉(もう古いかもしれませんが)、「NO なんとか NO LIFE」に当てはめると、なんとかの部分に「FOOTBALL」がぴったりのサッカーフリークの方は、ものすごくたくさんいると思います。

残念ながら、今の私にはその部分にぴったりくる何かがあるかと言われれば、浮かんでくるものがありません。

私とサッカーの出会いは、学生時代の体育の時間を除けば、まさにJリーグ開幕を直前に控えて、サンフレッチェ広島からのオファーをいただき、故郷宇和島で開業していた治療室をたたんで、広島にやってきたその時でした。

ボールも満足に蹴ったことがなく、サッカーの何たるかも全く分からないままに、自分の専門である人間の体を通して、サッカー選手をそしてチーム全体を見てきました。

3つのクラブで仕事をさせてもらいましたが、組織の中にいる立場の時にも、一歩引いている部分があり、組織を離れた今も、完全に外野から見ているというよりも、中にいる時のような見方をしたり、結局私の見方はどんな立場に居ても同じなんだと思います。

昨年シーズン途中でクラブの仕事を離れた時には、もう二度とサッカーに関わることはないだろうという気持ちと、もっと言えばもう二度と関わりたくないというくらいの気持ちになりました。

それが、スポーツライターの「木崎伸也」さんとの交流で、サッカーに対して別の視点を持つようになりました。

もしかしたら、この部分の私の能力に、もっと早く自分で気付いていれば、過去の私が積み上げてきた能力に期待をされてオファーを受けたわけですが、もっと別の角度から選手個人やチームのために役に立てたのではないかと思います。

ただそのことも、私が考えていることくらい、何年も何十年もサッカーを続けている人間たちが気づいていない、知らない訳はないと、勝手に思い込み、あえて言葉にしなかったということでもありました。

それが実際にはそうではなかったということです。

先日行った西本塾に参加していただいた方の受講動機に、サッカーの指導者として活動するためにはライセンス制度があって、基本的なボールの扱いや練習方法、また戦術的なものまできちんとした指導体制が整っているのに、どうして私がブログに書いているような、体そのものの扱い方や能力向上の方法を指導してもらえないのか、ということを言って来てくれた人がいました。

他にも、指導された通り一遍のことを続けているだけで、本当に指導者として選手のために全力を尽くしていると言えるのだろうか、という自戒を込めた意見もありました。

もし、スポーツドクターと呼ばれている方や、Jチームのトレーナーたちが講師を務めた講習会があったとしても、まさに教科書的な内容になり、心ある方々が満足できる内容になるとは思えません。

私がそういう方々の受け皿になっているとは言いませんが、二日間の終わりに発表していただく意見には、「こういうことを知りたかった、なぜこういうことが公に行われないのか」と、言ってくれる方もたくさんいました。

なぜ皆さんがそう思うような内容の話を私ができるのか、それは私がサッカー命の人間ではなく、まさに中でもなく外でもない立ち位置でサッカーに関わってきたからだと思います。

こうして私が、体作りではない、動きづくりのトレーニングの大切さを、ブログやツイッターで書き綴っても、実際の現場に活かされているとは思えませんし、届いているかどうかも甚だ疑問です。

ただ私の考え方を知っていただいた方々には、私の考えていることや発想そのものは、受け入れていただいている方も多いと思います。

ほんのわずかな数ですが、現役の選手や指導者の中にも、私の考え方に共鳴してくれている方もいます。

そして競技のジャンルに関わらず、西本塾を通して学んでいただいたことを、それぞれのフィールドで実践し、理論の正しさを証明していただいている方々もたくさん出てきています。

わがままを言わせていただいて、具体的に何が一番やりたいかと言われれば、やはり野球の投手の指導をしたいというのが本音ですが、私一人が指導できる範囲などたかが知れたものです。

ここまで真剣に体と向き合ってきた証として、様々な競技に私の考え方を活かしていただくことの方が、誰かのためにという思いは大きく広げていけると思います。

今思っているのは、この一年に渡って様々な選手の動きをテレビやユーチューブの画面を通して見続け、自分がこれまで考えてきたことが間違っていなかったことを、改めて確信してきたつもりですが、それを実際にこの目で生で見る機会を作れないものかと考えています。

何を今さらという部分もありますが、もしこの目でそういう選手たちの動きを目の当りにしたら、どんなふうに見えてどんなふうに感じるのだろうという部分に関して、自分でもとても関心を持っています。

先日のブログで、中学校一年生の競技ゴルファー君のことを話題にしましたが、画面の中の平面の動きでは分からない多くのことを、目の前で見せてもらえたことで、たくさんのことに気づかされ学ばせてもらいました。

同じことが、サッカーであれ他の競技であれ、言えると思うのです。

トップリーグの選手たちでなくとも、育成年代から含めて、日本人の体とどこが違うのか、その体を使って動く彼らの動きは、本当に我々には真似のできないものなのか、この目で確かめてみたい気がしてきました。

それはサッカーに限りません、見られるのであればどんな競技でもいいから見て歩きたいのです。

現実には、一人であっても数日間をかけて海外旅行をする余裕はありませんし、どこに行けば何が見られるというあてもありません。

それでも、どなたかが撮ってきてくれたビデオではなく、私にしか見えない何かを見つけることができたとしたら、さらに自信と確信を込めて西本理論を広めて行こうという気になるかもしれません。

こうして広島から発信していることが、どこでどんな風に受け取られて、役に立っているのか、何を言っているんだと思われているのか、実際にはコメントをいただくこともほとんどありませんので、私には分かりません。

ただ本当に今までの経験と試行錯誤の繰り返しでたどり着いた西本理論は、このままでいいのか、絶対に間違いないという信念の元に、指導をさせてもらっているけれど、自分がもっと広い視野を持って大きな人間になろうとする努力を続けなければ、これ以上の人間にはなれない、そんなことを考えるようになりました。

現場を離れる日はいつか来る、一昨年にはそう思っていました。

もう二度とないと思っていたのに出て行ってしまったことで、また外を見たいという気持ちになっているのかもしれません。

自分の可能性はまだまだ無限である、そう思わないと人生楽しくありません、自分から行動を起こさなければ何も始まらないのは分かっていますが、すぐそこに私を必要としてくれている何かが待っているのではと、甘い考えを持ってしまうのが私の悪い癖です。

ここにいても、今この瞬間にでも、画面を見るだけでも、様々なことを感じることができます。

私ならこうする、私ならこうできる、そう自信を持って思えるだけでも、他の人には味わえない時間を過ごしていると思っています。

骨を動かす意識

「筋肉の仕事は骨を動かすこと、それ以上でも以下でもありません」

これが私の体に対する基本的な考え方です。

これを基本として考えることで、「力んでいる」という状態や、屈筋に頼らず伸筋の自然な収縮で運動が行われているといった状態を判断することが出来ます。

では骨を動かすという意識で体を操るためには、どういう意識が必要になるのでしょうか。

施術として操法を行う場合、相手の動きを、まさにその意識で行わせることが、全身の筋肉と関節の連動を誘発させ、体の歪みを改善していくための絶対条件となります。

体操と操体の違いはまさにここにあると思います。

普通人間は、体を動かすという行為に対して、何処かの筋肉に力を入れることだという認識を持っています。

肘を曲げたり伸ばしたりするという、単純な動きであれば、上腕二頭筋と三頭筋に力を入れることを意識すれば事足りると思ってしまいます。

少し複雑な幾つかの関節の動きを組み合わせた動きを求められると、「どこの筋肉を使えば良いのですか」と、具体的にどこに力を入れたら良いのか質問して確認しようとする人もいます。

そこには筋肉に力を入れるという概念はあっても、骨を動かすという意識はありません。

しかし現実に求められているのは、人間が動くこと、イコール関節の角度を変えて行くということですから、その角度を変えていく時のスピードや、どこまで動かして行くかなど、動きそのもののはずです。

ゴルフの宮里藍選手が、1スイングに1分間くらいかけてゆっくりスイングし、正しい骨の位置を確認しながら、脳と筋肉にその動きを覚えこませて行くという練習をするそうですが、速い動きではごまかしてやり過ごしてしまうような微細な動きを確認しているのでしょう。

体のバランスを整え、健康のために自分で行う操法を行う時に、この「骨を動かしているという感覚」 がわかるようになると、私の書いた本の中に紹介した幾つかのパターンの動きにも深みが出ると言うか、私が本当に求めていた動きに近づけるのではないかと思います。

どうしても角度はどうの回数はどうのと、体操や運動を行う時のような感覚で行ってしまい、そういう意味の質問を受けることも多くありました。

今回、仰向けに寝たままで行う「踵伸ばし」という動きを例に、骨を動かすという感覚を探してみたいと思います。

まずはこの「踵伸ばし」というネーミングが微妙で、この言葉を聞いたり、文字で見て動作を行おうとすると 、真っ先に意識がいくのは踵そのものです。

仰向けに寝られる人はその場で横たわってみてください、「気持ちを楽にして右足の踵を伸ばしてください」という言葉に応じて体を動かしてみてください。

いかがでしょう、体の末端にある踵という部分を伸ばそうとすると、かなり無理があるというか不自然な動きになりませんか。

踵自身が伸びていくはずはありませんから、少なくとも下半身全体に力が入り、上半身も下半身を動かすためにぐっと力を入れてしまうかもしれません。

これでは本来の目的である、踵を押し出すように動かすという意識から、体全体がどう連動し、骨盤の動きを誘発し、それに伴って背骨から肋骨、肩甲骨から肩関節、そして首から頭の先まで、あくまでも自然な骨の連動を促すことにはなりません。

まさに踵を伸ばすためには、どこに力を入れたら良いのだろうということを、体に考えさせているだけです。

ではどうすれば骨を動かすという感覚になれるのか、骨を動かすのが筋肉の仕事なのですから、筋肉を差し置いて骨だけを動かすなどという言い方は、理屈に合わないはずです。

それでもなお私が、筋肉ではなく骨だけを動かしている感覚に固執しているのかというと、今、「筋肉を使って体を動かしている」と実感出来る時に使われている筋肉こそが「屈筋」だからです。

「伸筋」は、そういう感覚がないままに、骨だけが動いていると思えるほど微妙な働き方をしているのです。

だから、この骨だけを動かしている感覚こそが、「伸筋」を正しく機能させられている状態なのです。

この感覚をつかむことが、スムーズな動き出しやスピードの切り替えを可能とし、無駄な動きを排除することで疲れにくい動きが出来るようになります。

強さという面でも、屈筋に頼らず相手の力を吸収する体のぶつけ方という使い方にもつながります。

西本塾で指導していることの根本は、この「骨を動かす意識」を理解し身につけてもらうことなのです。

私が実技のデモンストレーションでお見せしている「技」に近い身のこなしは、そういう意識の元に行われているのです。

仰向けに寝て踵を伸ばす動作に一工夫入れてみましょう。

まずはどちらかの脚の膝を曲げて、足の裏を反対側の足の太ももあたりに置いてください。

こうすることで伸ばした足の骨盤が少し浮いて、骨盤自体と股関節を動かしやすくなります。

この姿勢から、骨盤を意識して、伸ばしている足のお尻を踵方向、下向きにそーっとずらしてみてください。

いかがですか、多分筋肉を使って体を動かしたというよりも、骨盤を伸ばした足の方へずらしたという感覚に近づけたと思います。

もう一度やってみましょう、伸ばした足の方へ骨盤(骨ですね)をずらした、それにつられて背骨が動き肩甲骨から肩・首そして頭の先、さらには肩から肘、手先まで、骨という骨が連なって動いてくのが感じられるはずです。

まてよ、この動きは踵を伸ばす、押し出すことが目的ではなかったのか、そうです、もちろん骨盤の動きは股関節から太ももの骨を伝わり、膝から下の骨にも伝わって、結果として踵という部分も動かしています。

ですからこの動きを求める時に「踵伸ばし」という言葉を使ってはいけないのです。

どうしても名前が必要と言うならそれも仕方が無いかもしれませんが、実際に行う時には、もしかしたら一番使ってはいけない言葉かもしれません。

いや自分はやっぱり筋肉を使って動かしている意識が強いという人も多いでしょう。

これこそまさに筋肉あり気の既成概念から抜け出せていない証拠です。

骨を動かすという強い意識を持ってください、後は自然に体が動いてくれます。

そうなるまで練習です、自分は出来ない、そんな動き方など出来るはずがない、そう思ってしまうのならそれも仕方が無いでしょう、意識を変えることほど難しいことはありませんから。

ただ出来てしまえば、体自身がどちらの動きを選ぶか、それは明らかです。

筋肉あり気の力任せの効率の悪い動きを、体が続けようとするはずがありませんから。

何度も言いますが一朝一夕で出来るようになるものではありません。

きちんと頭と体で理解し、継続しなければ身につくはずはありません。

「筋肉の仕事は骨を動かすこと」、その本当の意味は、意識して屈筋を使うことではなく、「骨を動かすために働いてくれている伸筋の自然な連動」によって行われているということです。




体のどこを意識するのか

昨日久しぶりにゴルフに行ってきました。
久しぶりといっても、1か月半ぶりですが、1か月に一度は行きたいと思っているので、かなり空いたような気になっています。

コースは広島一の難コースといわれている、安芸高田市にあるリージャスクレストゴルフクラブ・ロイヤルコースです

姉妹コースのグランドコースには、今年も二度お邪魔しましたが、ロイヤルコースはほぼ2年ぶりくらい
一緒に回らせていただいたのは、このコースのクラブチャンピオンの経験もある、もう6年ほど前からお付き合いをいただき、現在も「操」で体の調整をさせていただいている〇下さんと、グランドコースの方のクラブチャンピオンの経験者である〇田さんのお二人でした。

普通に考えれば、私ごときの素人ゴルファーがご一緒させていただけるレベルの方々ではありません。

それが、〇田さんが身動きもとれないほどのひどい腰痛に苦しんでいたときに、〇下さんから、だまされたと思って行ってみなさいと、私のところに来ていただいたことがご縁となり、腰痛が改善しゴルフができるようになったらご一緒しましょうという約束を果たしていただき、3人でのラウンドとなった次第です。

2年前に、グランドコースの10番ホールを使って行われたドラコン大会で、私が305ヤードを記録したと自慢げにお話ししたことで、コースを熟知している〇田さんが、年齢も変わらない私が、あの左のバンカーをキャリーで超えたということにたいそう驚かれ、是非一緒に回って自分との距離の違いを、この目で見たいと言っていただきました。

あの時にはまさにドラコン大会の出場と、300ヤード超えという一大目標に向かって真剣に努力し、見事に目標を達成しましたが、本番の後しばらくは体中がひどい筋肉痛で、いかに自分が頑張ってトレーニングをしていたか、後になってじわじわと効いてきました。

その後コースを回る際には、これはというあたりが出ても、おそらくキャリーでは270ヤードが精いっぱいだったと思いますが、今回はせめてそのレベルのあたりを、〇田さんの目の前で見せなければと、かなり意気込んで本番に臨みました。

18ホール中何発かはそれらしいあたりが出ましたので、自分としても満足して終わることができました。

スコアの話題には触れていませんが、コースの難しさもさることながら、とにかくドライバーショットを振り切って遠くに飛ばすことを最大のテーマとして臨んだので、OBの数が相当あり、ここでスコアを発表させていただくのはご容赦願いたいと思います。

今回一つ気づかされたのは、途中で〇田さんが、私のOBボールを探していただいた時に、一緒に拾っていただいたボールをもらって使ってみた時のインパクトの打感が、自分が持って行ったものと大きく違い、フェースに吸い付いてから飛んでいく、いわゆるトランポリン効果というものが感じられ、ました。

距離も方向性も良いように感じられ、ボールの値段もさることながら、自分の使っているドライバーやヘッドスピードにあったものを選ばないと、飛ぶものも飛ばないし、真っ直ぐ行くものもいかないということを実感しました。

とくに私のように、ある程度ヘッドスピードがある人間には、それが致命的な失敗(OB)につながるということでした。

自分のことばかり書いてしまいましたが、今回のラウンドのもう一つの目的は、腰痛が回復しゴルフもできるようになった〇田さんですが、それ以前のようなスコアが出せなくなったという話を、先日ケアに来ていただいたときに伺っていました。

施術を通して、私から見れば、もう十二分に体を使ってスイングできるはずなのに、頭のどこかで体に対する不安が抜けきれず、ブレーキをかけていることに気づき、施術後、鏡の前でスイングを繰り返していただき、私の思う所を伝えて、頭と体の疎通を図れるように指導させていただきました。

その結果というか、アドバイスがどういう形でスイングに現れ、スコアに結びついていくのかを、この目で見たかったのです。

他の競技の選手にも言えることですが、画像診断ではもう完全に治っていると言われても、以前のような動きを取り戻せない選手がたくさんいます。

リハビリの過程に問題があることはもちろんなのですが、本人が意識していないレベルで、頭は体に対して抑制的にブレーキをかけてしまっていることがほとんどです。

とくに〇田さんのような、アマチュアとはいえ上級者になると、クラブとヘッドのフェースコントロールに長けているため、ある意味ごまかしてでも、ある程度のボールは打つことができてしまうのです。

しかしそれでは競技レベルのスコアに戻ることはできません。

その部分を何とか改善させたいというのが、私の目的でした。

ですからスイングそのものというよりは、スイングを構成する体自体の動かし方を、私の視点で分析したかったのです。

話が戻ってまたまた言い訳になりますが、私自身のことは二の次でスコアな ど全く気にしていませんでし たから、それもティーグランドは、普通は使用しないフルバックから打ちましたので(笑)

そして始まったラウンド、最初はぎこちなさを感じたものの、「操」でアドバイスしたことを、改めてラウンドしながら指摘し、〇田さん自身では言われたことをやっているつもりでも、私や〇下さんから見れば、もっと体を捩じる動きができるはずだということになり、少しずつ思い切ったスイングを取り戻していきました。

後半のインコースに入ると、おそらくこれが〇田さんのゴルフであろうという、小気味の良いスイングから繰り出される力強うボールが、ドライバーもアイアンにも見られるようになり、さすがというスコアでまとめられました。

ご本人も満足していただいたようで、一時はゴルフができなくなるのではと落ち込んでいたのが嘘のように、来年の公式競技に向かって思いを巡らしている様子でした。

ラウンドの後、お茶を飲みながら話をしましたが、ここで体の動きに関して興味深いやり取りがありました。

私のアドバイスは、一言でいうとバックスイングで胸とお腹を、飛球線後方に置いた鏡に対して、正対させるところまで回してくださいと言うものでした。

身体に対する不安はさることながら、結果を求めるあまり飛球線方向にばかり意識がいってしまい、いわゆる手打ちになっているから、まずはこれ以上回せないという所まで体を回して、ここまで回しても体は大丈夫なんだということを頭に納得してもらいたかったのです。

気持ち良くボールを打ち、納得のスコアで回ってきた後、ご本人の口から発せられた動きの意識は、「とにかく肩を回そう」この一点だったというものでした。

ゴルフのスイングはアドレスから動き始めれば、あとはそれこそ一瞬の出来事です、あそこをどう動かしてここをどう動かしてなどと考えている暇はありません。

その中で、後ろを向くほど体を回してくださいと言うアドバイスを受け、〇田さんが意識したポイントが、肩ということになったのです。

ここに実は大きな落とし穴があるのです。

ゴルフを長くやっていて、〇田さんのような上級者になると、アドレスからの始動はヘッドからか、左肩からか、はたまた下半身の膝や股関節かといった、レッスン書に書いてあるような既成のイメージが染み付いています。

おそらく今回はその中から左肩を回すというイメージとリンクさせたのだと思います。

しかし私はそこに落とし穴があると指摘しました。

肩という言葉のイメージに固執してしまうと、もしまたバランスが悪くなってうまく当たらなくなった時に、下半身との連動が損なわれ、上半身の方だけに意識がいってしまうことになるからです。

こうなると上下の捻転という力を使うことができないため、飛距離をロスし方向性にも狂いが生じてしまいます。

私のようなレベルのゴルファーなら問題もそれほど大きくありませんが、一打を競う競技となるとこの問題は避けて通ることはできません。

だから私は、せっかく上機嫌な〇田さんに対して、「まだまだ体のことを専門的にお話ししてはいませんが、体を動かす時の意識はできるだけ体の中心に近いところを一点意識してください」という言い方をしました。

するとすかさず、「それは体幹ですか」と返ってきました、体幹トレーニングという言葉が一般の方の中にも浸透してしまったのですね、体の中心といえば体幹、大事なのも体幹と言葉のイメージが先行してしまっているのです。

言っている〇田さん自身が体幹という言葉の意味を理解していないのは話の流れですぐに分かりましたが、たぶん一般の人同士でならこれで会話が成立し、「そうだ体幹を回すんだ体幹を鍛えればいいんだ」で終わってしまうのでしょうね。

これではあまりにもアバウトすぎて、どこをどう動かしたらいいのか、会話している当事者同士でも共通認識が持てるポイントは見つからないと思います。

私が指摘したポイントは臍です。

難しい理屈は別として、右足の裏で地球を回すイメージから始動し、臍がこれ以上回せないという位置まで回せば、間違いなく肩はしっかりまわって、下半身と上半身の捻転差はマックスになります。

肩を回すの意識では、臍が回っていなくても構わないことになってしまいます。

〇田さんが本気で私のところでトレーニングを積み、体の仕組みや働きをもっと理解していただければ、また違う説明の仕方が出てくるかもしれませんが、今は臍が回りきっているかどうかが〇田さんのスイングとスコアを決めるキーポイントになると思いました。

同じようなことでアドバイスを必要とする人がいたとして、昨日の会話も傍で聞いていたとしても、それがそのままその人に当てはまり、改善ができるとは限りません。

やはり体をみて話を聞いて、実際に見なければ分からないことはたくさんあります。

もしかしたら「肩を回してください」と言ってあげた方がいい人もいるかもしれません。

なぜだか私は、人間の体の動きを見て、ああだこうだと考え、こうしたらこうなる、こうするべきだ、何という言葉で伝えよう、どんなトレーニングをすればもっと良くなってくれるだろう、そんなことばかり考える人間になってしまいました。

願わくば私自身に対して、客観的なアドバイスをして、ゴルフがもっとうまくなってスコアが良くなるように、もう一人の私がいてくれたらと思います。

賢明な皆さんは、この話が一ゴルフの動作改善にとどまらず、様々な競技の動作や、故障明けのリハビリそしてトレーニングに応用される内容であることに気づいていただいていることだと思います。

そういう見方をしていただければ、私の話の中にはいろいろヒントになるものがあるかもしれません、それぞれの感性で探してみてください。

プロフィール

Author:西本 直
1993年、Jリーグサンフレッチェ広島を皮切りに、社会人野球三菱重工広島・協和発酵・ヴィッセル神戸・川崎フロンターレ、そして広島カープ佐々岡真司投手など、プロアマ問わず競技レベルのスポーツ選手から一般の方まで、トレーニングやメンテナンスの指導を行ってきました。
その経験と知識の蓄積を「西本理論」としてまとめ、一人でも多くの方に実践していただくことが、これからの私の使命であると信じ、このブログから発信していきます。
私の理論はスポーツ選手のみを対象としたものではなく、ビジネスマンや家庭の主婦まで老若男女すべてに当てはまる不変のものです。
指導や講演のご依頼も受け付けています。
実名でツイッターも書いていますので、チェックしてみてください。
また、2013年9月9日にConditioning Studio 操をオープンしました。こちらもご覧ください。
また、遠隔地にお住まいの方を対象とした動き分析とアドバイスを行っています。
詳細は「スタジオ操」のホームページ内の「遠隔サポート」をご覧ください。
西本塾を深める会を9月10日(日)に開催を予定しています。
詳細はstudio操のホームページ内の「講習会情報」をご覧ください。

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