動き続ける能力とは

今回の西本塾、昨年に引き続き今年も継続して行うことを決めてから、西本塾に対する私の考え方が変わったことは前回ブログで書いたように、単に私の経験や知識を伝えることから一歩進んで、共に学び合い高め合うというコンセプトになりました。

私という人間を知らなければ、これまで参加してくれた人たちが、いくら熱い男だという感想を残してくれても、まさかここまでとは思わないでしょう。

自分で言うのもおこがましいですが、世間的に見ると私のようなタイプの人間は少数派どころか、もしかしたら化石に近いかもしれません。

ただいつでも何処でも誰に対してもという訳ではありません、私の能力を必要としない人に対して、あんな調子で話をしたら、それこそみんな引いてしまうでしょうから。

必要とされているとしても、私の能力のどの部分を必要としているかによっても変わってきます。

これでも一応その辺りのことは、私も考えているつもりです。

健康の維持増進を目的としているトレーニーに、プロスポーツ選手の能力向上を目的とするようなトレーニングを科したり、相手以上にこちらが熱くなって指導しても意味はないですから。

今回行った西本塾では、私のテンションは上がりまくりで、中学生の理工くんに指摘されたように、私自身が力んで屈筋優位の体の使い方や話し方にならないように、いつも以上に受けない冗談を飛ばしながら自分と皆さんの緊張を和らげていました。

そういう訳で私の熱さの源は、参加して頂いている皆さん10人の真剣な思いに応えるための精一杯の気持ちの表れなのです。

今回は私と皆さんの一体感が、いつも以上に感じられ、その証が翌日の月曜日に9人の方から感想が届き、お互いの感想に対してさらにその感想が届くという、今までになかった大きな波のうねりを生んでいます。

たった二日間とは言いながら、参加者一人一人の真剣な思いが相乗効果を生んでくれたのだと思います。

経済優先、格差社会などと、世の中すべてがお金に換算されたり、数字で縛られ、心の部分がどこかに置き去りにされている感がありますが、少なくとも西本塾での二日間という時間と空間を共有した皆さんとは、そういう現実とは別次元の、人と人とのつながりを持てたと実感できています。

もちろん今回の参加者以外の、これまで参加してくれた皆さんとも同じ気持ちです。

現状報告や問題点など、このブログにどんどん書き込んで欲しいと思います。

さて今日の本題ですが、月曜日に私が書いた原稿が久し振りにnewspicksにアップされました。

アリエン・ロッベン選手の走り方に学ぶ、90分間動き続ける能力の秘密に迫る、という内容の記事を書いたのですが、タイトルが「なぜロッベンは90分間『キレ』を維持できるのか」と、付けられてしまい、キレという概念に関しては、別の機会に書こうと思っていて、今回はキレのある動きという概念自体には触れていないので、私としては不本意でしたが、これはいつものことなので仕方がないと思っています。

newspicksというサイトは、経済ニュースに特化したサイトですから、当然読者の中には、なぜスポーツのことが記事になるのかと公然と批判する人まであるサイトです。

ですから、私が書く記事もそういう読者に対して一息入れて気楽に読んでください、という箸休めくらいの気持ちで書いています。

スポーツやトレーニングに対して真剣に取り組んでいる人たちが対象であれば、もっと踏み込んだ内容でなければ参考にもならないでしょう。

それでも私が書き続けているのは、スポーツという狭い世界の中だけで発信するのではなく、広く世の中に対して発信し、こういう考え方もあるのですよと知ってもらうことで、普段スポーツに縁のない方々だからこそ、素直に私の考え方に触れていただくことができ、身近な家族や友人との会話で話題に登場させてもらうことで、今まで当たり前だと思われてきたり、スポーツの世界に広まった既成概念を突き崩すきっかけになるかもしれないと思っているからです。

ロッベン選手の走り方、西本塾参加者や個別に指導を受けた方々には、この記事の言わんとしていることは十分分かっていただけると思います。

「動き続けるということと、走り続けるということに何が違うんだ」、残念ながら世の中のほとんどの人はそう思っています。

現実にサッカーに携わっている人間の多くはそう思っているでしょう。

だからシーズン前のトレーニングキャンプで、体力強化の名の下に、ひたすら素走りをしたり、階段や坂道を駆け上がったり、チューブに引っ張られないように耐えながら走ったりと、筋肉に高い負荷をかけ、体にとってイジメとも言えるトレーニングが当たり前のように行われているのです。

それはなぜか、自分たちが行っているサッカーという競技が、90分間あの広いピッチの中をひたすら走り回り、どんなに疲れても歯を食いしばって、相手よりも一歩でも速く、一歩でも長く走り続けることが求められていると思っているからに他なりません、その能力を高めるためには、そういうトレーニングが必要だということに繋がって行くのです。

これはある意味当然のことです。

走力に勝ること、これも選手としての重要な要素でしょう、ただそのこととサッカー選手としての本来の能力は違うと思います。

走れなくてもいいなどと言っているわけではありません。

サッカーにおける走るという行為の目的は、単に移動の手段ではないはずです。

この場所からあそこまでいかに速く動き出して到達するか、それを競うのは陸上競技の選手です。

サッカー選手は、ヨーイドンではなく、移動する方向やタイミング、スピードは勿論のこと、走りながらでも周囲を見回す冷静な目も必要ですし、相手との接触もあるかもしれません。

そして何より一番大切なのは、移動しながらボールを扱うドリブルやシュート、トラップやパスという技術のはずです。

その最も重要な能力を高めるために必要なことが、何十分走るとか階段を何回駆け上がるとかいうことで本当に養われるのでしょうか。

そう思ってしまう理由は、ピッチの中でそういう体の使い方をしているからに他なりません。

だからそういう能力が必要だということになり、無駄に疲れるだけのトレーニングを科してしまうのです。

トレーニングを行う選手も、行わせるコーチも、間違ったことをしているという感覚はありません。

そこで養われた能力を実際に使ってピッチの上を走り回ってきたのだし、現在もそう思っているのですから。

読んでいてまどろっこしく感じる人も多いでしょう、そのことの何が違うのかと。

走るという行為、移動の手段だと言いました。

では今行っている走るという体の使い方以外のイメージで、速く長く移動し続けることができて、スピードの切り替えも楽にでき、ボールを落ち着いて扱え、周りを見渡す余裕があり、相手とのぶつかり合いにも負けず、何より今までの動き方に比べ、格段に疲れにくく、自分の能力を発揮し続けることができる、そんな体の使い方があるとしたら、それを選ばないのはおかしいと思いませんか。

いつもの私の口癖ですが、そんなうまい話があるはずがないと思うのだったら、それは仕方がありません。

今まで通りの苦しいトレーニングを続けていればいいのです。

これも何度も言っていますが、この体の使い方は私が発明したとか、私しかできないなどという大それたものではないのです。

人間すべてに備わった本能の動き方なのです。

それをいつからか、走ることとはこういうことだと誰かが決めてしまったのか、みんながそう思ってしまったのか画一的な方法論に終始するようになってしまいました。

実際に体験した人は分かってくれますが、どうして今までこうやって走っていたんだろうというのが、例外なく聞かれる感想です。

私の言っていることが理解できなくても、百歩譲ってそういう動き方があると思ってくれたとします。

しかし、そんな甘っちょろい、追い込むことのないトレーニングで、本当に90分間動き続けられるわけがない、今度はそういう気持ちになるでしょう。

私が2年前にJリーグのチームのトレーニングコーチとして仕事をするために持ち込んだ理論の根本がここにありました。

トレーニングの目的は、監督のやろうとする戦術を選手が理解して、90分間いえシーズンを通して理解を深め練り上げていくことこそが本当の意味でのトレーニングであり、私に課せられた使命だったはずです。

その目的を達するためには、階段を駆け上ることでも何十分間も走り続けることでもないはずです。

それは監督が行うピッチの上での練習を行うことです。

この当たり前のことが理解されていません。

フィジカルという名の下に、肉体的に精神的に大きな負荷をかけることがトレーニングで、その能力が向上すればピッチの上で速く長く走り続けることができる、それがひいては質の高い練習につながりチーム力の向上につながると思ってきたのです。

私はそうは思いませんでした。

私がサッカーという競技に対して全く経験がないこともあり、よくもまああんなに長い距離のダッシュを繰り返したり、止まったリターンしたり出来るなと、感心していましたが、その能力に限界があることは私でなくとも誰にでも分かるはずです。

そこに体の使い方という発想を持ち込み、効率的で疲れにくい動かし方があると分かってくれれば、それを身につけてもらうことこそがトレーニングの目的であり、身につけた動き方を思う存分発揮して走り回ってくれるのなら、今までとは全く違ったサッカーができるはずなのです。

決して楽な練習にはなりませんよ、どんどんボールを使った練習を行ってもらいます。

今までであればミニゲームを行う時、選手の疲労を考慮して15分で休憩が挟まれていたのが、指導している監督が動きの質が落ちないという判断をすれば、さらに5分の継続が可能となり、結果的に運動量は増し負荷も上がってくるのは当然です。

集中力の持続は明らかで、攻守の切り替えでポジションに戻る際に息が上がって、次のプレーに集中できなかった選手が、間髪入れずに素早い動き出しを見せてくれれば、指導する側にも余裕ができ、戦術の理解や徹底が図られることは間違いないことです。

私が行わせるドリルにしても、ヨーイドンではやらせませんが、幾つか設定したコースに対して、ここではどういう体の使い方を要求するという明確な指示をして、サッカーに必要な動き作りを行ってもらいますので、選手はただたんに速く駆け抜けることが目的ではなく、自分がその動きができているかということを確認しながらのトレーニングになります。

当然集中力が増し、実戦に近い感覚で動きますので、気がつけばかなりの運動量をこなしていて、いわゆる心肺機能の持久力も養成され、次の実戦練習にそのままその動きを持ち込んでくれることになります。

短い時間であったとしても、ただ単に体に負荷をかけることが目的ではなく、サッカー選手にとって必要な能力なのだという理解のもとにトレーニングを行ってもらうのです。

もう一度言っておきますが、けっして楽なトレーニングではありません。

ロッベンの動きを見ていると、まだ少し若い頃のがむしゃらな動きが残っています。

動き出しの瞬間に屈筋がでしゃばりそうになりますが 、ぐっと我慢して広背筋を上腕部のリードで巧みに操り、骨盤との連携動作で股関節をスムーズに前方に運ぶという、見事なまでの伸筋走り(欽ちゃん走りとは全く意味が違いますので悪しからず)で加速していきます。

加えて肘を曲げて素早く腕を使うことで、細かいステップワークもできるため、相手を交わしたりターンをしたりシュートをしたりという細かい動きも自由自在、楽に対応できています。

その結果として、一般的な言葉で言う「90分間走る続ける」ことができるようになり、私の言う「90分間動き続けることができる」選手の見本のような選手になっています。

若い頃筋肉系のトラブルが多かったのは、やはりここ一番に顔を出してくる「屈筋」を、抑えることができなかったのでしょう。

それが経験を積み、屈筋というブレーキを使うことなく、伸筋のアクセルワークを巧みに操り、今の動きを身につけて行ったのだと思います。

これは誰が指導したとかいう話ではなく、おそらくは彼の肉体の本能がそう変化させて行ったのだと思います。

我々は本能に任せるのではなく、知識として学び、体に学習してもらって、自然にその動きを発揮できるようになるまで継続する以外に方法はないと思います。

逆に言えば、誰にでも身につけられる可能性があるということです。

私が気づいたこと、伝え続けていかなければなりません。
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伝えるから学び合うへ

昨日一昨日の二日間、西本塾を行いました。

今回で通算10回目の開催となりました。

このブログの内容を直接聞きたい、体験したいという方々のために、そう言ってくれるのならと塾という名称で勉強会を始めましたが、回を重ねるごとに私の思いは少しずつ変化していきました。

とにかくどんなものなのか直接見てみたい、私が伝えたいというよりも、参加しようとする皆さんの好奇心の方が上回っていたと思います。

加えて、興味の中心となるところが参加者それぞれの職業や背景によって異なるため、私のすべてを必要としているのではないことも明らかでした。

どんな分野の方であっても、それぞれが必要とする枝葉の部分を学び自分のものにしようと思うのなら、私のたどってきた道のりや考え方の変遷を知ることなしに、今の私の技術や理論を身に付けることなど到底できることではないと思います。

しかし、現実に巷で行われている講習会や勉強会と称する集まりに参加する人たちは、そこで謳われている内容や、得られるであろう技術の習得が目的であって、その背景にまで思いを巡らせる人などいるはずがありません。

当然私の元を訪れる人も、他の講習会に参加するのと同じ気持ちで、少し変わった考え方や技術がどんなものなのか、ちょっと見てやろうという方がほとんどだったと思います。

私がいくら枝葉のことを追っかけているようでは、いつまでたっても物事の本質に迫ることは出来ないと力説しても、はなからそんなことを望んでいない人たちには、まったく意味をなさない言葉になっているようでした。

それでもこうしてブログを書き続けているうちに、心ある人は少しずつ気付いてきたようです、「このブログを書いている、西本直という人間は、今まで接してきた人間とは少し違うぞ」と。

実際に、西本塾に参加を申し込んでくるときに書いてもらう受講動機に記された文章から伝わってくる思いに、大きな感覚の差を感じるようになりました。

いつまでたっても、私の書いた文章の中に見つけた、自分にとって効果を得られるかもしれないという実利を得るために参加したいという方と、もちろんそれぞれの目的はあるにせよ、それ以上に、「西本直」という人間に会ってみたい、西本がどういう人間でどういう人生を歩んできたのか、どういう経験を積み重ねてきたことで、今のような考え方に行き着き、さらに発展させようとしているのか、私自身が言う所の、「木を見て森を見ず」とか、「枝葉のことに気を取られるのではなく、根っこを掘り返すことが大事なんだ」というレベルをはるかに超えて、私という存在そのものに興味を持ち影響を受けたことが、最も大きな受講動機であると書いてきてくれる人が多くなってきたのです。

これは私の想像を超えた、ある意味想定外のことでした。

私の経験してきたことをベースにした、体に対する考え方や技術を、そう簡単に教えてくれと言われても、教えられるわけがないし、もし分かったと言われても、分かったと言われること自体違うだろう、というのが私の正直な気持ちでした。

人に教えておいて、分かったなどと簡単に言われてたまるか、という人間には教える権利はありません。

だから私は教えるというスタンスではなく、ブログやネットで自分が発信した以上、それだけでは伝えきれない部分をもっと知りたいという人がいるのなら、自分の言葉で改めて伝える義務があると思ったのです。

けっして私と同じ技術を身に付けさせることもできないし、私と同じ考え方になってもらおうとも思いません。

第一、私と同じ人生を歩み同じ経験を積み上げることなど出来るわけがないのですから。

当たり前のことですが、同じ人生が経験できないからこそ、人は目標とする人間が出来た時、その人の人生から何かを学ぼうとするのです。

私ごときが大きなことを言っていますが、参加者の方々が私から学びたいのは、私の人生経験の中から生まれた生き方とかそんな話ではなく、ブログに書いてあった疲れにくい走り方を直接教えてほしいとか、効率的な体の動かし方を知りたいとか、施術を業にしている方であれば、すぐにでも使えるテクニックを教えてほしい、それだけなのです。

当たり前のことです、「それ以上、西本から何を学ぶのだ」、その通りです。

私は新興宗教の教祖ではありませんし、哲学者でも心理学者でもありません、そんな私にそれ以上の何かを感じ、理論や技術を超えた、一人の人間としての生きざまを感じたいと言ってくれる人が現れてきたのです。

当初はそんな考えなど持ち合わせないままに西本塾に参加し、二日間、私という人間に接した後、そういう気持ちを言葉にしてくれる人が増えていました。

それがまだ申し込みの時点で、そういう気持ちを綴ってくれた人が今回の参加者の中にいたのです、それも一人ではありませんでした。

これは大変なことになってきた、正直そう思いました。

西本塾は今年から参加資格のハードルを上げました、それは伝えるから学び合うというスタンスに移行させるためです。

私が何を伝えようとして西本塾を行っているのか、このブログで何度も書いてきました。

私の西本塾への思いの変遷も、本気で読み込んでくれていればわかっていただけるはずです。

それでも枝葉のノウハウが欲しくて参加したいと言ってくる人もいます、それが悪いと言っているのではありません。

私のすべてを学びたいとまで言ってくれる人と、自分の目的とすることだけを持ち帰りたいという人が、二日間同じ空間を共有することに、私自身とても違和感を感じるのです。

この空気感は言葉では説明できないものです、熱く張りつめた空気の中に冷たい風が吹き込んでくる瞬間があるとでもいうのでしょうか、二日間という短い時間の中で、少しでも多くのことを少しでも深く学んでほしいと真剣に思うようになりました。

当初の伝えるというスタンスから、教える指導するという一方的な関係ではなく、様々な背景をもった参加者の方々の反応を見ながら、私が設定したテーマに沿って、お互いが深く学び合う空間にしたいと思うようになったのです。

西本塾のネーミングのヒントになった、吉田松陰が開いた「松下村塾」は、身分にとらわれず、学びの志を持った人間に対して、来る者拒まずで門戸を開いていたそうです。

私はそこまで心の広い人間ではありません、二日間という短い時間、同じ場所で過ごす同志たりうるためには、それぞれ目的は異なるにしても、私から何かを学ぶという目的に対しては、同じレベルの高い意識と覚悟を持って参加してほしいのです。

たかがスポーツトレーナーの勉強会に、何をたいそうなことを言っているんだ、そう思うでしょう、私自身そう思います。

そう思うようになったのは、私自身の考え方の変化はもちろんですが、参加者の方々の意識の高さや取り組む真剣さに圧倒され、自分自身がもっと意識を高く持たなければならいと思ったからです。

今回の参加者の中に、大学を卒業するというタイミングで参加してくれた方がいました。

彼は大学卒業まで、スポーツこそ真剣に取り組んでいたとはいえ、専攻は別の分野で、当然その知識を生かした就職先があったにもかかわらず、私のブログを読み続け人生の舵を別の方向に切ってしまったというのです。

ご両親の落胆ぶりは想像に難くありません、もし私の息子が優秀で、そういう大学に進学し卒業してくれたとしたら、それなりの就職先があり、これでやっと本来の意味の子育ても終わったと安心できたはずです。

突然の方向転換、それが私のブログを読んでというのですから、ご両親に合わす顔がありません。

しかし彼の眼には、一点の曇りも迷いもありませんでした。

自分で決めた道に進むために、別の大学の大学院に進み勉強しなおすそうです。

その道への第一歩を踏み出すために、そのきっかけとなった私のところにやってきてくれたのです。

そんな思いを持って参加してくれる人まで出てきた西本塾、当初のような「野次馬根性でもいいですから、こんな考え方もありますよ、知っておくのも一興です」などと、呑気なうたい文句で参加者を募集するわけにはいかないのです。

年齢や性別など関係ありません、今回は高校進学を間近に控えた中学生と、そのお父さんや、小学生のサッカー少年のお母さんなど、多様な背景をもった参加者もありましたが、他の方々も含め本当に真剣なのです。

この雰囲気はとても文章では表せません、それくらいの熱い空気の中で行われているのが今の西本塾なのです。

冗談を飛ばして場を和ませるなどということが嫌いな私が、あまりの空気感に参加者の息が詰まらないように、私自身が熱くなってしまわないよう、不必要な冗談やダジャレを連発しなければならないと思わせるようなことになっています。

回を重ねるごとに言葉の重みも変わっていきますし、伝える内容にも変化が出てきています。

今回二日間10人の皆さんと過ごし、学び合ったことが、明日からいや今日からの私を変えることは間違いありません。

新たな出会いにそれは活かされていきますし、過去の出会いが、この二日間に活かされていることは当然のことです。

そうやって私自身が学び育てていただいています。

以前指導していたチームで二年間指導し、今は別の職業に付いている元選手が、今回指導者の立場で学びたいと参加してくれました。

最後の感想を話してもらう時に言ってくれた言葉は、「今の自分の環境にいる西本さんのような年齢の人たちを見ていると、もう伸びしろを感じないどころか、数年いやもっと前から進歩が止まっているように見えます、比べて西本さんは50代後半にして現状に満足することなく、常に前向きに進んで行こうとしていることが凄いと思います」、こんな趣旨の話をしてくれました。

仕事のジャンルにもよるのでしょうが、私には立ちどまって満足できる場所がないのです、まだまだ見えない、いえ、あるのかないのか分からないゴールに向かって走り続けていたいのです。

今回参加していただいた皆さんから、本当に大きな、そして貴重な刺激をいただきました。

私自身もう一度頭と体を整理して、また新たな一歩を踏み出して行きたいと思います。

二日間本当にありがとうございました。

体を治すということ

前回のブログで肉離れについて触れたところ、大きな反響があったようです。

今日は少し補足しておきたいと思います。

というのは、私が肉離れの受傷直後から、患部である筋肉そのものを動かすということについて、そのことの是非というか、まさに常識では考えられないという意見を持った方が多かったようです。

この辺りの感覚が、私の常識と世間の常識の大きな違いというか、まったく違う部分で、独自の理論と言われる所以となってしまったようです。

不幸にして肉離れを起こしてしまった筋繊維、もちろんアクチン繊維とミオシン線維のレベルの話ですが、3・5・7理論で言うところの3の方向へ縮むことも7の方向へ引き伸ばされることも拒否してしまいます。

脳からの指令で収縮するなどもってのほかと状態になっています。

アクチン繊維とミオシン繊維が滑走しあう生理的な限界を超えてしまったり、その収縮の範囲内であっても瞬間的に大きな力が加わって、自然で滑らかな滑走ができなくなってしまったことが肉離れの実態でしょうから、その部分の組織は傷んでしまい、出血したり炎症物質が多く溜まってしまうことになります。

そこで治療として考えられるのが、まずはその部分の器質的な回復です。

器質的な回復を図るためには、組織として正常でなくなってしまったので、ある一定のレベルまでは安静にして、それ以上の炎症や痛みを発生させないようにしておくことが優先されます。

それが安静固定でありアイシングという処置になります。

数日単位の時間をかけて、炎症が収まるのを待ちます、経験がある人もいると思いますが、太もも裏の肉離れでは、大きくアオジになった炎症部分が、少しずつ膝裏の方に降りて行って、いつの間にか消えていくということになります。

そのあたりからやっと少しずつ動かしてみようかなというのが一般的です。

その炎症を早く抑えるために、高価な医療器械が使われることもあるでしょう。

その目的は何か、受傷して炎症を起こしている組織の回復を早めるためです。

ではその早めてくれているものの本体は一体なんでしょうか、アイシングによる血管拡張の抑制効果でしょうか、器械による組織への刺激でしょうか、それとも注射や内服薬で体内に入る抗炎症剤でしょうか。

どれもそのために使われるものです。

しかし事の本質は何かというと、その傷んだ組織にどれだけ大量の血液を送り込めるかというのが一番重要なのではないでしょうか。

私は常にこう言っています、「体を治すのは、私の腕でも薬でもありません、あなたが今吸っている新鮮な空気の中から取り込む酸素と、バランスのとれた食事から摂取された栄養をたっぷり含んだ血液です」、さらに「体を育てるのも守るのも、そして治してくれるのも、みんなあなた自身の血液が行ってくれることなのです」と。

そういう私の発想からすると、肉離れを起こしてしまった組織であったとしても、安静固定で血流を阻害してそれ以上悪くならないようにするということから始めるのではなく、いかに早く患部に血液を供給するかということこそが治療であり回復を早めると考えるのです。

歩くこともできないどころか足を着くこともできない、ましてや動かすとか触られるのも怖いし嫌だ、そう思うでしょう。

しかしそれは筋肉に対して収縮してくれという指令を送って、自分で動かしてくれということを要求するからです。

筋肉には知らん顔をしてもらって、まったく意識をさせない状態なら、実は筋肉を動かすことができるのです。

筋肉の仕事はなんだったか思い出してください、関節を動かすことでしたね、筋肉に対して収縮を要求するということは、関節の角度を変えてくれとお願いすることです。

ならば関節の角度を変える仕事は、第三者である私がするから、何もしないでのんびり休んでいてくださいというお願いをきちんと聞いてくれたなら、何の痛みもなく関節を動かし、他動的にアクチンとミオシンに対して滑走を促すことができるのです。

もちろんこのやり方には細心の注意が必要で、解剖学的な筋肉の起始と停止部位を理解した上で、あくまでも本人に痛みを感じさせない、もっと言うとアクチン繊維とミオシン繊維が嫌だと言わない範囲で動かすことができれば、受傷した繊維に対して血液という最も効果的な物質を送り込んであげることができるのです。

これが治療でなくてなんなのでしょうか。

このやり方で多くの選手の早期復帰を後押ししてきましたが、年月を重ねてもなお私のやり方は広まるどころか消え去ってしまっていて、選手やスタッフからも「筋肉の問題だから慌てないで時間をかけたほうがいいですよ」と言われる始末でした。

筋肉の問題だからこういう考え方も成り立つし、実際の効果もあげてきたのです。

これが骨折だとか半月板の損傷などの障害であればこういう考えは通用しないでしょう。

何でもかんでも当てはまるとか、ほかの人より早く復帰させられると言っているのではありません。

痛いから動かさない、痛いから動かせない、それもいいでしょう、選手本人もスタッフも当たり前のことを当たり前にやっていれば誰にも文句を言われることはありませんから。

当たり前のことを当たり前にできることで用が足りる世界であれば、そういう人がやればいい、私は私のやり方で勝負します。

そういう気持ちで肉離れに限らず、どうすることが人間の体にとってプラスになるのかをずっと考えてきました。

自分の考えは間違っているとは思いません。

東京オリンピックに向けて、選手だけでなくトレーナーとしてその場に立ちたいという若い人も増えているようです。

資格を取って誰でもできることをできるようになれば、あとは人間関係とコネという一般社会と同じような世界が待っているだけです。

私のような人間を目指してもけっしてそういう目標には近づけないと思います。

ただ本当に選手のために働こうとする立場の人間として必要な能力はなんなのかを考えた時、スタッフの一員としてうまくやっていくためのコミュニケーション能力だったり、会話についていくための専門知識だったりでは寂しいと思いませんか。

選手や指導者の中には、今でも上手にマッサージをしてくれるのが、良いトレーナーだと思っている人間も多くいます。

それで本当に選手の能力を向上させ、スタッフの一員として勝利に貢献できていると実感できるのでしょうか。

そういう仕事をやりたいと言うのならそれでもいいでしょう。

日の丸のついたウエアーを着て、有名選手との記念写真に収まるのもいいでしょう。

私には全くそんな趣味はありません、どんな有名選手も子供も一般の方も同じ人間です、私を信じ頼ってきてくれる人間に対して、何かを変える必要などありませんから。

昨夜も高校卒業を間近に控え、関東の大学で陸上を続けるという長距離選手のお父さんから電話がありました。

少し興奮した様子で、何かのキーワードで検索していたら私のブログがヒットし、走りについてのブログを読んでこれだと思ったそうです。

ホームページから連絡先を調べ、大学進学までの残されたわずかな時間の中で、息子さんの成長に少しでも役に立てられないかと思っていただいたようです。

まさに待ってましたです、陸上競技の長距離種目こそ、最も端的に私の走りに対する考え方と方法論が効果を発揮できるのですから。

すでに何人もの方が、その効果を実感し証明してくれています。

大学進学後はそれこそ厳しい競争が待ち構えていると思いますが、しっかり指導して送り出してあげようと思います。

また、選手ではなく指導者や施術する立場の方からも個別指導の問合せを頂くようになりました。

西本塾には日程的に参加できないが、個別指導を受けたいというものです。

昨年までであれば、そうまで言うならと受け付けたかもしれません。

しかし、今年に入り西本塾の参加申し込みに対しても、受講受付のハードルを上げました。

直接私の話を聞きたい、自分の体で体験したい、以前ならそれで十分でした、今はそれに加え私がこの人には是非来て欲しい、こういう人に指導をしたいと思わせてくれる人に参加して欲しいと思うようになりました。

野次馬根性でどんなものか見てやろうという人はお断りすることにしました。

私が自分のやってきたことで作り上げている理論や技術を、今まで以上に本気で伝えようという気持ちになったからです。

個別指導の方がもっと密に伝えられるじゃないか、そう思うでしょう。

しかし、西本塾で丸一日かけて伝える座学を省いて、走り方を教えてくれサッカーの動きを教えてくれ、体の使い方を教えてくれ、そんな要求に本当に応えられるのでしょうか。

以前からずっと言い続けている、駄菓子屋に色々な大きさや色の付いた飴玉の紐を束ねたものから、1本引いて当たったものを貰うというのがありますが、大きな赤い飴玉が欲しいから、先に飴玉を引っ張って手前の紐を確認してから引くのと同じことではないでしょうか。

何の苦労もなく自分の欲しい知識や技術が手に入ると思っているのでしょうか。

私はそんなやり方で自分の技術を作り上げてきたのではありません、疑問に思ったことをなぜどうしてと深く根を掘り起こし、仮説を立て自分の体で試し、使えると思ったものだけを選手に施し、結果を積み上げながら今に至っています。

知らないことは知っている人間に聞くのが手っ取り早い、確かにそうでしょう。

しかしその過程を学ぶことなく、あれを教えてくれこれも教えてくれというのは違うような気がします。

それでも相手が選手であれば、短い時間でも私が直接指導することで変化させ効果を出す自信はあります。

それが、その人本人ではなく、その後ろにいる私の手の届かないところにいるだれかのために役に立ててもらえるレベルになってもらうためには、逆に短時間の直接指導から入ってこられては、私の思いは伝えられないのです。

何を熱くなっているのだと思われるかもしれませんが、私という人間はそういう人間です。

本気で学びたい、本気で成長したい、熱い思いを持って私の元を訪れてくれる人が増えてくることを期待しています。

通算で10期生となる西本塾が週末に迫りました。

もしかしたら昨年よりも少し表情が厳しくなっているかもしれません、気合が入りすぎて空回りしないよう、しっかりお伝えしようと思います。

10名の皆さんとの出会いを楽しみにしています。

肉離れについて

以前にも書いたことがあると思いますが、肉離れについて今思うことを書いておきたいと思います。

西本塾でも時間をとってこのことに関してはお話をしていますが、そもそも肉離れとはどういう機序でどういうことが筋肉の内部で起こっているのでしょうか。

一般的なには、◯◯筋という名前が付いているひとかたまりを筋肉としてイメージすると思います。

痛みを訴え医療機関で検査を受けて付けられる疾患名も、大腿四頭筋の肉離れなどと表現されます。

第三者的にも客観的にわかるように、MRIの画像でこの部分に炎症があり、筋肉に損傷がみられるということになり、全治6週間とか8週間という診断が下されることになります。

まずは患部を動かさないようにして安静を保つことを要求されます。

本人の感覚が優先され、痛みの感覚の軽減度合いと、受傷してからの経過日数が勘案されリハビリが開始されていきます。

そして何よりも優先されるのが、画像診断による組織の回復度合いです。

しかし現実には、組織として異常を認められなくなったとしても、それがイコール治癒ということにはならず、本来の動きを取り戻せないばかりか、再発を繰り返すことが多いのも、このケガの特徴です。

まず私が考えるのは、どうして肉離れという状況が起こってしまうのかということです。

「筋肉の仕事は骨を動かすこと」ですから、筋肉は関節の角度を変えるために存在し、単純に言うと関節を曲げる筋肉と伸ばす筋肉が、それぞれの関節に配置されています。

筋肉が付くとか落ちる、また筋肉が無いとまで表現されることがありますが、人間の筋肉は平等に体の中に存在し、どこかに落としてくることもなければ、後から付け足すこともできません。

屁理屈を言っているように聞こえるかもしれませんが、これは大事なことで、きちんと配置されている筋肉を、その役割通り使っていなかったり、ほとんど負荷がかからない生活を続けていることで、きちんと使えている人や、トレーニングや日常の生活で負荷がかかっている人に比べて、筋肉の発達が見られないというだけの違いなのです。

箸より重いものを持ったことがないと言う人は、当然筋肉の発達は期待できません、というより必要ないから発達しないというのが筋肉の特性でもあります。

その筋肉が関節を曲げたり伸ばしたりの運動をしてくれる時、必要な筋力で必要な角度に動かすという繊細な作業を、屈筋と伸筋の微妙な関係を保ちながら行ってくれています。

私が今こうしてキーボードを叩いて、自分の思う文章を書けているのは、それがきちんと行われているからです。

屈筋と伸筋のどちらかだけが単独で行う動きは皆無だと思います。

そのバランスが崩れた時、筋肉に大きな負荷がかかり滑らかな収縮ができなくなってしまったために起こるのが肉離れではないでしょうか。

私が筋肉を語るとき、筋肉の最終単位である「アクチン線維」と「ミオシン線維」の滑走説から話が始まります。

西本塾では、まず体の仕組みを学んでいただくのですが、その際もっとも重要だと言って時間をかけ図を書いたりプリントした写真を見せながら説明します。

一般的にイメージされる、筋膜に包まれた筋肉のかたまりの中は、蜂の巣かレンコンをイメージしていただくと分かりやすいと思いますが、筋繊維束と呼ばれる束の集合体で、それは同じく筋形室の束で出来ていて、さらにそれは筋原繊維の束で出来ていて、その筋原繊維を構成している最終単位がアクチン繊維とミオシン線維ということなのです。

難しい話に聞こえるかもしれませんが、最終的に組織としてダメージを受け、痛みを発したり炎症を起こしたり、動かしにくかったり、と言うのはこの部分のことを言っているはずなのです。

それをその一歩手前や二歩手前、三歩手前の筋肉の名前を持ち出して、診断名に使われているのです。

私が考える肉離れの原因は、屈筋と伸筋の連携不調であると言いました。

体にとって無理のない動き方をしていれば、連動であり連携を重視して動き方をしていれば、防げるケガだと思います。

大雑把に言ってしまうと、体の関節の動きに対してブレーキになっているのが屈筋で、アクセルの働きをしているのが 伸筋であると私は思っています。

ですからブレーキをかけながらアクセルを踏めば、筋肉にとって当然不自然な動きとなり故障しないほうがおかしいということになります。

サイドブレーキをかけたまま、またフットブレーキを踏んだままアクセルをいくら踏まれても、車はどうしてい いのかわからないのです。

太腿の前側にある大腿四頭筋は、股関節に対しては屈筋ですが、膝関節に対しては伸筋の働きを持っています。

そうなると体の前側に力を入れ、体を丸めるようにして股関節を屈曲し膝を引き上げた状態から、今度は膝を伸展してボールを蹴る動作をしたら、大腿四頭筋はどうやって動けばいいのでしょうか。

股関節の屈筋としての役割を求められたと思ったら、次の瞬間には膝関節を伸展させるための伸筋としての役割を要求される、文字で書くとゆっくりに思うかもしれませんが、これが実際にはほぼ同時に行われるのです。

まさにブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなものです。

走る時も同じです、腕を振って太腿を引き上げるという屈筋主体の動作を行わせておいて、膝から下を大きく踏み出す、膝を伸ばすことでストライドを稼ごうというのですから、屈曲に使われた大腿四頭筋はブレーキのかかった状態で着地という体重の数倍の重さを受け止めなければならないのです。

まっすぐ走るだけならまだしも、スピードの切り替えや方向転換、スタートやストップなどの瞬間的な負荷は想像をはるかに超えるものがあります。

にもかかわらず、それに耐えうる体を作ることがトレーニングであると信じて疑わないのです。

私はそれは無理な相談だと思います、体はそういう風に使うようにできていませんから。

だからもっと伸筋に活躍してもらえるような体の動かし方を提唱しているのです。

そうは言いながら不幸にも肉離れを起こしてしまった時、本来の状態に戻すにはどうしたらいいのでしょうか。

何度も言いますが、自覚的に痛みが取れ、客観的にも画像に写る炎症部位が消えて無くなったことが治癒ではありません。

それは医学的には患部の治癒でしょう、それが医学の目標とするところですから。

しかし現実には本来の動きができない、器質的には改善したが機能的な改善がはかれない、これがケガをしたスポーツ選手にとってもっとも悩ましいところです。

またやるんじゃないかという精神的な不安ももちろんあります、それ以上に問題なのは、アクチン繊維とミオシン線維が、本来の滑らかな滑走を取り戻せているのか、ではないでしょうか。

これを説明するために、私の考えた3・5・7理論が必要となります。

肉離れや剥離骨折の発生機序も、この模式図を使えば、誰にでも理解できるはずです。

その滑らかさを取り戻すことこそが、リハビリトレーニングの最大の目的だと思います。

リハビリではなく、通常の動き作りのためのトレーニングも、実はこの3・5・7理論によって構成されたトレーニングなのです。


まさに何キロを何回持ち上げられるようになったとか、患側が検測に比べて何十%まで回復した、などというレベルでリハビリの効果を確認しているようでは絶対に本来の動きを取り戻すことなどできないと思います。

その具体的な方法まで文字で表すことはできませんが、2年前この考え方を基本とするトレーニングの恩恵を一番受けたのは、今年他のチームに移籍したベテランの選手ではなかったかと思います。

その前年には90分どころか45分も動き続けることができないような状態だったと聞きましたが、2年前のシーズンではシーズンを通して、今までにない長い時間ピッチに立ち続けてくれていたようでした。

彼は肉離れを何度も繰り返し、年齢的なこともあって、患部に対して大きな負荷をかけることを避けているようでした。

マッサージや電気治療を受け、自分なりのトレーニングも行ってはいたようでした。

それでも全体的な運動量も減り、色々な意味でのスタミナが衰えていくことは明らかでした。

その彼に提案したのが3・5・7理論の中で、いかに筋肉の収縮の幅を広げていくかということでした。

その収縮が滑らかになることで動きが改善され、負荷もかけられるようになり、スピードトレーニングにも挑戦できるようになっていった思います。

他の選手にも同じような状態の選手がいましたが、自覚的な痛みの感覚が優先され、私の理論は受け入れてもらうことができませんでした。

周囲のスタッフも、まさに私の独自理論という扱いで、協力を得ることができなかったため、その選手の状況を改善することはできませんでした。

「自分にはこの考え方や方法論は合っていると思うが、それぞれ考え方があるからお前もいうことを聞いたほうがいいとは言えない」と言うのが、ベテラン選手の言葉でした。

もちろん選手どおしで強制はできません、しかし私に言わせれば誰には合うけれど、別の誰かには合わないなどということはあり得ないのです、同じ人間の体ですから。

育ってきた環境や選手個人の考え方がありますから仕方がなかったことですが、肉離れの恐怖から逃れ、思い切って動き回れるような体に戻るためには、アクチン繊維とミオシン繊維にまで目を向けた取り組みを行う以外に方法はないと思います。

その一つの方法として、受傷直後からまったくの他動運動で患部に関係する関節を動かすという発想になりました。

まだまだキリがないほど、肉離れに対する思いはありますが、すべては人間同士の信頼関係なくして成り立たないものですね。

私を信じて私の手を必要としてくれる人には、絶対にその信頼に応えられるよう常に準備しています。

これは私の職人としての自信でありプライドです。

まだまだ腕を磨いていきますよ。

伝えることと教えること

「伝えることと教えること」、この似て非なることをどう使い分けるか、私の中でも大きなテーマとなっています。

日本で一般的に言われているトレーナーという立場は、おそらくそのどちらもする立場にはないと思われているかもしれません。

しかし、人間の体そのものを、さらにはその心の部分にまで踏み込んで対応することが求められる立場であることには異論はないと思います。

戦術やその競技種目に特化した、いわゆる技術を指導するコーチという立場の人間たちが、人間の体の仕組みやその使い方という部分に目を向けていないことが、選手の能力向上や体調管理にマイナスになっていることは否定できないでしょう。

そのためにトレーナーという立場が存在し、選手のためにという同じ目的に向かって協力していくことが求められているはずなのですが、分業といえば聞こえがいいのですが、自分の経験や立場が優先され、相互理解というところまでは行き着いていないと思います。

私は単純に選手の能力向上という目的に沿って、良いと思われることはどんどん提案し指導してきました。

そうやって行っていることの中には、他の担当のコーチや指導者の領域に踏み込んでいる場合もあったと思いますが、選手との関係の中で必要と思われることを発展継続していく過程でそうなっただけで、選手にとっては、これは誰これはどのコーチが指導するという区分けは、かえって混乱させるだけになるのではと考えています。

そうは言いながら、組織というものはややこしいところがあるようで、自分の仕事の領域を荒らされたとか、自分に黙ってそんなことをされたら困るとかいう、組織の論理が働いてしまうようです。

初めてプロのチームで仕事をした時、私は選手にこう言っていました、「チームの外の人間に頼ることは個人の問題だから否定はしない、もしその人間が自分より優れた腕を持っているのだったら、チームに話をして、その人と契約してもらってくれ、自分はいつでも辞める覚悟はできている」と。

まだチームに合流して日が浅く、人間関係も出来ていなかったこともあると思いますが、それだけの自信とプライドを持ってチームと契約したつもりでしたから。

あれから20年以上経ちました、知識も技術も経験もあの頃とは比較にならないくらい向上させてきたつもりです。

あの頃20代だった多くの選手たちも、すでに40を越え指導者として立派な活躍をしています。

彼らの子供たちも大きく成長し、同じ道に進み私の指導を受けてくれる立場に育っています。

そういう関係であれば、これまでほとんど関わりのなかった選手ではあっても、自分の父親の信頼が厚い人間だということで、私に対する信頼は初対面の選手に比べればまったく違うものとなります。

何れにしても、私が個人の立場で指導をしているからこそ、私の思ったことを思ったように指導できることは十分心得ているつもりです。

またここを訪れていただく選手や指導者をはじめ、様々な立場の皆さんも、私の本音というか誰に遠慮することもなく自分の体験から導き出された理論を学びたいという気持ちだと思いますので、何の問題もなく指導する側とされる側の関係が成り立っていると思います。

つい先日ネット上のスポーツニュースで、ソフトバンクに新加入した松坂大輔投手に対しての、佐藤義則投手コーチの指導の仕方が、大きく取り上げられていました。

文字で知っただけの情報ですが、以下のような内容でした。

松坂投手の方から、このキャンプで初めてブルペンに入るにあたり、佐藤コーチに対して、自分のフォームで気になっている部分があり、それをチェックして欲しいという内容の話し合いが事前にもたれていたそうです。

松坂世代という言葉さえ生み出した、野球界の超一流選手が、日本球界に復帰して初めてブルペンでの投球を公開するという、マスコミにとってはこんなにも美味しいニュースはないという状況でした。

その注目度は高く、多くのマスコミや関係者が注目する中で始まった投球練習で、佐藤コーチはまさに手取り足取りという表現がぴったり(このマスコミ表現はかなり大げさだと思いますが)の、指導を行ったということが、松坂という一流選手に対して失礼だとか、中にはマスコミの前で晒し者にされたという表現まで使われていたのです。

球界OBの元名投手であり、指導者であった方のコメントでも同じ論調で佐藤コーチのやり方に批判的な言葉が並んでいました。

松坂投手の投球フォームに関しては、私自身、彼が高校時代飛び抜けた能力と結果を残していた当時から、このままの投げ方では必ず故障をする、長くは続かないという意見を持っていて、聞かれることがあると必ずそのフォームの問題点を指摘し続けてきました。

もちろんそのことが彼の耳に入ることなどあるはずもなく、一向にあの頃のフォームが改善される気配はありませんでした。

日本で野球をやっている時でも、初回から調子良くすいすい投げ続けていると思ったら、7回か8回あたりになると、突然肩をぐるぐる回すような仕草を見せたかと思うと、コーチがマウンドに歩み寄り交代してしまうというシーンを何度も目にしました。

細かい解説は今回はしませんが、もともと大リーグ志向の強かったか彼は、いわゆる体作りのトレーニングに励み、力に頼った投げ方になっていました。

ひとまわりもふた回りも大きな外国人の投手でも、それも生まれ持っての体格や筋力を持ってしても、力任せに見える投げ方では100球が限度で、それ以上の球数は体にとって大きな負担になるということが、経験上分かっているため、日本のように先発完投という美学は通用しない世界となっています。

これは絶対にそうだとは思えません。

体にとって無理のない理にかなった投げ方をすれば、もう少し違う考え方になるとは思いますが、あのパワーを持ってすれば、フォームだ体の使い方だとか細かいことを考える必要がないのかもしれません。

しかし我々日本人の体ではそうはいかないのです、後天的に肉体改造という名の下に作られた体は、先天的なそれとは明らかに違うのです。

話を戻します。

日本のスポーツ界では、教え魔と呼ばれるコーチは、たぶんに嫌われる傾向にあるようです。

さらには、もし大きな期待を背負って入団してきた選手に対して、良かれと思って指導したことが原因で、力を発揮できずに消えて行ったり、調子を崩してしまうという状況が起こった時、それがそのまま指導したコーチのせいにされ、責任問題にまで発展してしまうことが過去何度もあったようです。

オリックス時代のイチロー選手を、それこそ付きっ切りで指導した河村コーチは、イチロー選手の大ブレークに自らの指導が大きく貢献していると球団に訴えましたが、結果は選手が出したもの、コーチは指導するのが当たり前と、金銭的な評価を球団から勝ち取ることができなかったようです。

選手が結果を出したら、それは選手が頑張ったから、もし選手がダメになったらコーチの指導が良くなかったから、これでは本気で指導しようというコーチが少なくなるのは当たり前だと思います。

私の知る限り、本当に指導熱心でこういう人に指導を受けたいというコーチは、選手から煙たがられ、さらには球団も選手のそういう泣き言を間に受け、居辛くなって退団などという話もたくさん聞きました。

指導力があり選手のためにと懸命に努力するコーチは煙たがられ、波風立てず、球団や選手との人間関係を第一とするコーチが居座っていられる状況は、旧態然とした日本球界の縮図にように感じます。

松坂投手は、相対的な比較という意味では、日本でもアメリカでもそれなりの数字を残しています。

しかしそれで満足しているとは思えません。

もっと出来る出来たはずだ、何が違うのだろう、おそらく自問自答の数年間が続いていたことと思います。

もしかしたら私が気付いていることくらい、多くの関係者は気付いていると思います。

それを言えない指導できない雰囲気が、彼を包んでいたことが、ここまで悩みを深くし故障に悩まされ、納得いかない野球人生を送っている原因だと思います。

「彼はもっと素晴らしい投手になれる」今回指導している佐藤コーチも、おそらくずっと思ってきたはずです。

誰が見ていようと見ていまいと、選手とコーチ、納得するまで話し合い、指導をし指導を受ければいいのです。

松坂投手にその気持ちがある限り、もう遅いということはないはずです。

今からでも一味違うニュー松坂になってほしい、私もそれを期待しています。

マスコミがプロ野球を育ててきた功績は否定しません。

しかし、私の嫌いな「キャンプで一年間戦える体を作る」など、日本語になっていない意味不明な言葉もたくさん生み出してきたり、過剰な報道や無責任な報道で、純粋にスポーツとしての野球の発展を阻害してきたことも事実だと思います。

野球選手の社会的な影響を考えれば、試合中にベンチの裏でタバコを吸ったり、試合後の監督のインタビューがくわえタバコで行われていることに、それはダメそれは違うときちんと言えないマスコミなど信に値しません。

もし私の身内や相談される間柄の選手がプロの世界に入ってとしたら、それはその道のスタートラインにつかせてもらっただけであることをきちんと理解させます。

それまでの実績がどうであれ、もう世界が違うのですから、それにこだわっている限り進歩はありません。

本当に自分のためになることであれば、どんどん受け入れて全くそれまでの自分とは違う選手になるくらいの気持ちでないと、厳しい競争を勝ち抜いていけるわけがありませんから。

指導する側も、もっともっと勉強して、もしこの選手が自分の子供であったらと、本気で思うくらい熱い指導をして欲しいと思います。

讃岐での3日間では、指導するにあたって、教えるという一方的な姿勢はとらないように気をつけました。

「こうすればこうなるよ、こういう風にできるようになるとこんないいことがあるよ」と言うことを伝えるにとどまったと思います。

いやいやあなたの指導はもっと熱かった、と言っていただけるかもしれませんが、私の中では、3日間伝えたことで選手個人やスタッフが、チームとして何かを感じてくれて、今シーズンに生かしてほしい、そういう気持ちでした。

私にとっての指導は、分からせたい理解させたい出来るようにしたいという、こちらの思いが優先されるものです。

結果にこだわっているからです。

しかし、伝えるというやり方の中にも、相手の反応や理解の度合いを見ながら、発する言葉を変えたり内容を工夫したりすることで、一方的な指導というスタンスよりも、良い結果を生み出すことができるのかもしれません。

まだまだいろいろなことに挑戦し続けたいと思います。

部分の痛みにとらわれず体を一つに

今朝の広島は気持ちの良い青空が広がり、目の前に広がる宇品港と、瀬戸内海の内海に浮かぶ島々がいつも以上に美しく見えています。

今週は個別指導を受けにきてくれる方が二人と一組あって、その都度新しい気づきがあります。

昨日も、もう一昨年になりましたが、第2回の西本塾に参加してくれ、現在サッカー界で話題になっている今治FCで育成年代のコーチを務めている渡辺憲司さんが久し振りに私の元を訪れてくれました。

初めてお会いした時から、そのサッカー指導にかける情熱は十分伝わってきましたが、当時所属していた組織を離れ、心機一転、新しい組織と環境を求め、今治での指導にやる気が満ち溢れているようでした。

そんな彼が、改めて私の指導を受けにきてくれたのですから、こちらもいつも以上に彼の、そして彼から指導を受ける子供達のために出来る限りの指導をしました。

私はこれまでの人生の中で大きな目標というか、こうなりたいこうしたいという気持ちを、あまり感じたことがありません。

今なぜ自分がここでこうしているのか、ましてやサッカーの選手や指導者に対して、体の使い方などという一般の方には説明することさえ難しい意味不明なことを指導しているのか、自分が一番不思議なことだと思っています。

流れるままに、今必要だと思ったこと、自分ならこうする、こうできると思ったことをやり続けてきた結果、今があるという感じです。

J リーグのトレーナーになりたかったわけでもないし、プロ野球選手のパーソナルトレーナーになりたかったわけでもありません。

需要と供給というのでしょうか、必要とする人間がいて、それに応える能力を持っていて、たまたま縁があって結びつき、その関係が崩れた時には、その環境を離れるということを繰り返してきました。

常に自分の思いが優先されてきた結果です。

もし私がサッカーの経験者で、常にサッカーを身近に感じていたいという人間だったとしたら、サンフレッチェ広島から誘っていただいた時点で、それから先の人生は決まっていたのかもしれません。

その後は、幸か不幸か様々な環境で仕事をさせてもらったおかげで、過去の自分からは思いもよらない、まさに波乱万丈の人生となっています。

そんな私の経験や、知識また技術を見たい聞きたい学びたいという人がたくさんいるということも、まったく想定外の展開でした。

そうは言いながら広島に来て22年、神戸と川崎での短い生活もありましたが、人生で一番長く生活している場所となりました。

今治FCの代表兼監督を務められる木村孝洋さんは、私が3年間広島に在籍した最後の年に、一緒に仕事をさせていただいたことがある方です。

あの頃の選手やスタッフだった方の多くが、サッカー界で指導者として活躍されており、みんなすごい人たちだったんだと改めて感じています。

さて今日は、痛みと体の関係について書いて見たいと思います。

私の元を訪れる方の目的は大きく二つに分かれます。

ひとつは現在こちらの方が本業に思われている感もある、「動きづくりのトレーニング」を指導して欲しいという方です。

もう一つは、いわゆる整体や施術施設に行くような感覚で、私の操体法をベースにした施術で痛みを取り、体の不調から解放されたいという目的で来られる方です。

トレーニングが目的で来られる方は気持ちも前向きで表情も明るく、こちらも「さあ来い」という感覚でお迎えする事ができるのですが、痛みを抱えてくる方は、一様に表情も冴えずどちらかと言えば、どうせ何をやっても良くならないことはわかっているけれど、勧められたからとりあえず来てみたという雰囲気が感じられます。

当然といえばそれまでですが、自分の期待通りの結果を短期間で見せてくれる施術者には、そう簡単に出会えるものではないと思います。

それは施術者側にももちろん問題はありますが、私はそれ以上に当の本人の考え方に問題があると思っています。

痛みが出たのもなかなか良くならないのも、正直こちらのせいではありません。

私が蹴飛ばしたわけでも無理をさせたわけでもありません、私の前に立った時点ですでに痛みを抱えているのですから。

それを私を含め、治せないお前が悪いという顔をされても、それは筋が違うというものです。

お互いが前向きな気持ちでコミュニケーションを図り、どうすれば少しでもその痛みから逃れることができるのか、私は治してもらう人、あなたが治してくれる人、という感覚では絶対に良い結果は得られないと思います。

名人上手と呼ばれる人がいて、黙って私のやることを受け入れていれば、悪いようにはしない、黙ってそこに横になっていればいい、そう言ってはばからない人もいるようです。

残念ながら私にはそんな能力はありません。

いつからどのような痛みなり違和感を感じていたのか、それに対してどのような対処をしてきたのか、私が必要とする情報が得られるまでしつこく聞き続けます。

その情報さえ聞き出すことができれば、自ずと改善方法は見つけ出すことができます。

さらにはどうしてそういう問題を抱えることになったのかという、原因究明のヒントも与えてくれます。

体にとって無理なく効率的な動かし方使い方をしている限り、そう簡単に壊れてしまうほど人間の体はいい加減に作られてはいないのです。

必ず原因が潜んでいます、逆に言えばそれを見つけ出すことなく、痛みがなくなったとか動きやすくなったことをゴールとしてしまうと、必ず同じような状態になることは誰が考えても分かることです。

一般の方はそこまで求めてはいないでしょうが、それでもできるだけその部分にまで踏み込んで行くのが私の流儀です。

ましてやスポーツ選手であれば、一般の生活ではありえないような筋力の発揮方法だったり、関節の可動域が要求されます。

当然それに耐えうる準備とケアが必要になるはずです。

それにもまして、どういう風に体を動かすことが、本来人間という動物に与えられた本能の能力なのかも知らなければならないのです。

「グローイングペイン」という病名というか診断を下される選手が増えているようです。

私は昨年、ここを訪れてくれたエルサマニ・オサマ君からの状況報告のメールで、初めてその名前を知りました。

これは20年前にはスポーツヘルニアという呼び方をされていた症状のようで、たぶん正式な医学用語ではなくスポーツ医学の中で使われている呼び方だと思います。

機序は別として、鼠蹊部から恥骨周辺にかけて、ボールを蹴ったりサイドステップで踏ん張ったり、中にはまっすぐ走るだけでも痛みを訴える場合もあります。

当然選手も医師も医療スタッフも、その部分に意識が行きます。

レントゲンを撮り、さらにはMRIの画像で診断し、痛みの部位や組織としての損傷具合を明確にしようと努力します。

治癒の経過も、その画像診断がすべてとなり、そこがこうなったから治った治っていない、動いていいまだ動いてはいけない、そういうことになります。

そういう見方をするならば、みんな同じような時間の経過を経ながら、治療からリハビリへと移行し、練習に合流していくという流れになるはずです。

しかし現実にはそうはいきません。

本当に組織としての変異や損傷があり、それが痛みの原因となっていたとしても、その部分の器質的な治癒がイコール痛みの改善、そして動くという機能の改善には結びついてはいかないのです。

私がそういう状態の選手に対する時まず考えることはこうです。

同じような動きをしていても、こうならない選手の方が多いことは明らか、ならばこの選手の動きの中に痛みを産んだ原因があるのではないか、それは単純なフォームの違いではなく屈筋と伸筋という筋力発揮の概念を持たず、歯を食いしばり頑張り続けた結果なのではないかと。

事実、そういう選手の多くは私が知る限る運動量の多い、いわゆるハードワークをする選手たちでした。

最終的にはその部分、まさに「動き作り」を指導しなくては、その選手に対して私のベストを尽くしたとは言えないことになります。

それは最後の仕上げの部分で、現実的にはまずその部分の痛みを軽減させることから始まります。

ここでも私は局所からできるだけお互いの気持ちをそらせるようにしています。

現実に痛いのはこの部分、それは分かっています、しかし、体というのは一度痛みという感覚を持ってしまうと、そこを守るために全身が協力して、その部分に負担がいかないようにカバーし合おうとしてくれます。

痛みはまさに外、と言っても痛みを訴えている本人の脳に対して発する危険信号です。

これ以上無理をさせないでくれ、もう限界だという、黄色もしくは赤になっているかもしれないSOS信号なのです。

こんなことぐらいでと頑張り続けた結果が、組織として画像診断で分かるほどの損傷を受けてしまうことにもなるのです。

そうは言ってもスポーツ選手です、毎日付いていられる立場であれば、そうならないように普段から気をつけてあげることがトレーナーとしての仕事ですが、痛みが出たしまったことは事実でなんとかしなければなりません。

そこで考えることは、痛みを訴えている部分そのものではなく、そこをかばうために生じた体の他の部分の歪みや緊張を取り去ってあげることなのです。

子供の頃遊んだ「だるま落とし」を思い出してください、何段かに積み上げられた積み木の一番上に、だるまの顔が乗っていますよね。

たとえ10段くらいであっても、9段目までをきちんと積み上げておけば、最後の顔の部分は、小さな子供でも簡単に乗せることができるでしょう。

しかし、9段目ですでに不安定な積み方になっていれば 、最後の一つを乗せられないどころか、すべてが崩れてしまうかもしれません。

私はいつもこのことをイメージしています。

どこが痛いと言われても、治すべきはその人の身体そのもの、足でも手でも鼠径部でもないのです。

体全体の負担が減って、というか、痛みの部分が治っていこうとしても、周りのかばってくれていた部分がいつまでたってもそれを止めず、それどころかかばってあげていたつもりが、その部分自体の歪みや緊張を生んで、新たな問題を自ら抱え込んでしまっていることが本当に多いのです。

私は体に語りかけます、「ご苦労さんでした、もういいんだよ頑張ってくれなくても」と。

しかし、現実の痛みを知っている体は、そう簡単に言うことを聞いてくれません、「今自分がかばってあげることをやめたら、またあの痛みが体を襲うのではないか」、そう言っていつまでも緊張を解いてくれないのです。

私はこの状態を「根に持っている」と、表現しています。

良い言い方ではないかもしれませんが、それほど体というものは全身が一つになって協力しあってくれているのです。

ですから、体全体に対して「もういよゆっくりリラックスして」と語りかけるのです。

そのお願いが届いた時、不思議なことに局所の痛みも消えていくのです。

最後の顔の部分を乗せるために、最大限の集中力を発揮して乗せ切ることで、不安定な状態を続けることを選ぶよりも、一番下の段から時間をかけて積み直し、最後の一段も当たり前のように乗せられるような体を取り戻してあげることこそが、私にできる最高の施術だと信じています。

そうやって折り合いがついた体だけが、次のステップであるリハビリのトレーニングから実戦的なトレーニングへと進んで行けるのです。

局所の痛みにだけ目を向け、意識を取られ一喜一憂していては、本当の体の言い分に耳を傾けることはできません。

局所に対して何もするなと言っているわけではありません、それでもそこにしか気持ちのいかないスタッフのために、いつまでたっても最後の一段を乗せられず悩んでいる選手のどれほど多いことか。

「動く作りのトレーニング」を広めていくことと同じくらい、このことは重要なのです。

故障をしない体など作れるはずはありません、そうならないためにも動きづくりは絶対に必要な考え方で、その上で、そうやって作り上げられた体のケアをどうやって行っていくか、すべては一つに繋がっていきます。

体は部分の集まりではありません、丸ごと一つの存在です。

こらが私の師である「渡辺栄三先生」から学んだ、体と向き合うための操体法の本質だと信じています。

ぜひこういう考えでトレーニングを行い、また指導し、体のケアのできる人材を増やしていかなければなりません。

前回、最後にお願いしたことに応えていただき、拍手の数がなんと100を超えました。
それがどうしたということなのですが、その数字を見て一人ほくそ笑んでいます。
共鳴する部分があるとしたら、その足跡を残していただければと思います。
押してくださった方々ありがとうございます。

明日も中学生とそのお父さんが、個別指導に来ていただくことになっています。
昨日より今日、今日より明日と、皆さんからいただく経験を積み重ねて、いい指導を続けて行きたいと思います。

私の根本にあるもの、雑感

讃岐での三日間、私にとっても本当に良い経験をさせてもらったと思っています。

一対一の個別指導で、相手の表情や息遣いを感じながら、臨機応変に指導をして行くのが私の得意とするスタイルで、西本塾のような形であっても、一度に対応できるのは10人くらいが限度かなと思っています。

それをプロのサッカー選手を相手にして、約30人の選手たち全員に、私の考え方を伝え、意識を変え、動きを変えるという仕事を、結果責任を含めて自信を持って指導できるのか、私にとっての大きな挑戦でもありました。

自己満足の部分はあるとしても、今の私は色々な意味でそれができる人間に成長できていると思うことができました。

相手があることですから、受け入れる側の環境づくりが、指導の成否の大きな要素になることはもちろんですが、どんな相手に対しても、「誰かのために」の気持ちを常にベースに持っていれば、ちゃんと伝わるのだということを確信しました。

今週に入ってからも、個人指導を受けにきてくれた高校生の指導を行いましたが、すでに讃岐での経験が活かされていることを実感しています。

20数年この仕事を続けてきて、いつの時点からか「体作りから動き作りへ」が、トレーニングの本質であり目指すべき方向であると確信し、それをどうやって形にしていくかを考え続けてきましたが、私の力では、それが一般的な定説になるという、大きな目的には程遠く、いまだに「大勢とは対極にある独自の理論」という扱いから抜け出ることはできません。

しかし、その部分に対する世の中のニーズというか興味は、私が思っている以上に大きいことも最近感じてきました。

世間が正しいと言っている理論や考え方に沿ったトレーニングを行った結果が、本来自分が目指した方向性に合致しておらず、努力を重ねれば重ねるほど目標から遠ざかっていくという現実を経験をした選手が、ものすごく多いのです。

それがなぜ表面化してこないかというと、たんに自分の努力が足りなかったとか、そこまでの選手だったという、本質的な原因の究明がされることなく、それぞれの胸の内にしまいこまれているからだと思います。

現在フットサルの現役選手として活躍している選手が私のブログに出会い、長年の疑問を解消するヒントになるのではと、ここを訪れてくれたことがありました。

高校時代は全国制覇を経験し、関西の大学に進んでからもリーグの新人賞を獲得するなど、その先にはJリーグで活躍する自分の姿が明確にイメージできるところまで来ていたそうです。

それが学年が上がるとともに、選手としての能力がチームメートとの相対評価で少しずつ下がっていったと言うのです。

もちろん油断や慢心があったのではなく、逆にトレーニングや練習に対する取り組みは、質量ともに日々真剣さを増していったそうです。

それが何故Jリーガーという結果に結びつかなかったのか、このことに対する答えを見つけ出せないままに現役を退きたくない、その思いが私のブログに興味を持たせることになったようです。

これは偶然ではなく必然だったかもしれません、常に疑問を持ちアンテナを張り巡らせている人間に対して、そのヒントは必ず与えられるように、世の中には目に見えない力が働いていると思うからです。

「求めよさらば与えられん」という言葉がありますが、誰かが教えてくれるのを待っていたり、もちろん何も考えていない人間に対しては、目の前にあるヒントさえ気付くこともないでしょう。

その選手は私のところを訪ねる前に、便箋6枚にもわたる手紙を書いてくれ、その想いを綴ってくれました。

もう1年くらい前のことですが、ことあるごとにこの手紙を読み返し、「せめてあと10年早く西本さんに出会いたかった」、そういう気持ちになる選手を一人でも減らせるよう、「動き作りのトレーニング」を声高に発信し続けなければならないと気持ちを引き締めています。

それにしてもどうして我々人間は体の前面に位置する、屈筋群を鍛えることがトレーニングの目的になってしまったのでしょう。

「筋肉の仕事は骨を動かすこと」それ以上でも以下でもないことは、少し説明すれば誰にでもわかってもらえることです。

ではその骨の中でも、人間が運動をするために主になって動いてくれなければならない部分はどこでしょう。

骨盤と股関節、肩甲骨と肩関節、それをつなぐ背骨、それらを動かしてくれる仕事をしているのはいったいどこなのか、冷静に考えれば誰が考えてもわかるはずなのに、何故見栄えの良い体の前側にばかり意識がいくのか、何故どうしてという物事の本質に迫る作業は、地味で目立たないことかもしれませんが、これなくして何の進歩があるのでしょうか。

生まれ持った遺伝的な要素は、如何ともしがたいものがあります。

しかしそれは器質的なものであり、機能的な体の使い方という部分では、一人一人平等にその能力は備わっていると思います。

それに対してどうやってアプローチしていけば、自分の能力を向上されられるのか、そこに目を向けた人だけが、過去の自分の殻を破り、新たな可能性にチャレンジする権利を得たと言えるのではないでしょうか。

それこそが私の提唱する「動き作りのトレーニング」なのです。

もちろんそういう考えを否定する人間もいます。

自分はこれくらいの能力、あいつはこれくらい、あいつには敵わないがあいつには負けるはずがない、これでは個人としてチームとして成長することなどできるはずはありません。

今日は痛みに対する、感受性の個体差や、いわゆる施術を行う際の考え方、また器質的な回復と機能的な回復など、操体法をベースに長年の経験で作り上げられてきた自分なりの感覚で、それらにどうやって対処して行くかという問題を、最近感じていることがあって、それをテーマに書こうと思ってキーボードに向かいましたが、改めて言っておかなければならないと思ったことを書き綴ってしまいました。

西本理論などと大風呂敷を広げていますが、日々の生活の中で思うことがたくさんあり、また誰かのために役に立つ指導をするためには、どんな工夫をすればいいのか、などなど、自問自答、根っこを掘り起こす毎日が続いています。

「動き作り」と「痛みを取る」という作業は、表裏一体どころか全く同じものではないかと思っています。

近いうちに痛みに対するアプローチから、体の仕組みを語ってみたいと思います。

いつまでこのブログが続けられるか、すぐに書くことが無くなってしまうのではと思っていましたが、私の頭の中の思考作業は一瞬たりとも立ち止まることはなさそうです。

今感じたこと伝えなければならないこと、ただの独り言、誰かのためにはもちろん、自分の生きている証として、マイペースで書き続けていこうと思います。

家内にはしつこいと言われそうですが、下の拍手の数が最近大体同じ数になっています。
更新するたびに熱心に読んでくださる方が押してくれるのだと思いますが、数が増えると書いている私としては単純に嬉しいですし励みにもなります。
押してくださっているみなさん、いつも応援していただき本当にありがとうございます。
どなたがというのがわからないのが残念ですが、心から感謝していることをお伝えしたいと思います。
また感じたことなど、コメントも是非送っていただければと思います。
全てにお答え出来るとは言えませんが、お答えすることで、読んでいただいている方にも関心を持って読んでいただけるような質問であれば、喜んでお答えします。
ただ膨大な量になりましたが、すでに答えは書いてあるという場合もあると思いますので、その際は改めてのお答えは多分できないと思います。

さて、今月行う「西本塾」、今回も定員の10名に達しましたので、募集を終了しました。
今回も様々な立場の方が参加してくれます。
親子で参加していただく方、子供さんのために勉強したいというお母さん、それぞれの皆さんに参加して良かった、そう思って帰っていただけるようしっかり準備してお持ちしています。
新たな出会いを楽しみにしています。

プロフィール

Author:西本 直
1993年、Jリーグサンフレッチェ広島を皮切りに、社会人野球三菱重工広島・協和発酵・ヴィッセル神戸・川崎フロンターレ、そして広島カープ佐々岡真司投手など、プロアマ問わず競技レベルのスポーツ選手から一般の方まで、トレーニングやメンテナンスの指導を行ってきました。
その経験と知識の蓄積を「西本理論」としてまとめ、一人でも多くの方に実践していただくことが、これからの私の使命であると信じ、このブログから発信していきます。
私の理論はスポーツ選手のみを対象としたものではなく、ビジネスマンや家庭の主婦まで老若男女すべてに当てはまる不変のものです。
指導や講演のご依頼も受け付けています。
実名でツイッターも書いていますので、チェックしてみてください。
また、2013年9月9日にConditioning Studio 操をオープンしました。
また、遠隔地にお住まいの方を対象とした動き分析とアドバイスを行っています。
詳細は「スタジオ操」のホームページ内の「遠隔サポート」をご覧ください。
「第25回西本塾」を11月18・19日の土日に開催を予定しています。
詳細はStudio操ホームページ内の「講習会情報」をご覧ください
尚、深める会も12月10日に予定しています。

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