私の生き方にこそ固定概念があったのかもしれません。

昨日は育成年代の子供たちのサッカーチームの指導の手伝いに行って来ました。

指導と言ってもサッカー経験のない私に出来ることは、『体の使い方』ということに絞られます。

指導の中で今まで使ったことのない言葉がまた出て来ました、ボールを扱う技術ではなく、『体を操る技術』と言う概念を持って欲しいということです。

実際には体を操る技術こそがボールを操ることそのものなのですが、ボールを思ったように扱えるという技術、具体的にはリフティングやドリブル、止めて蹴るという基本動作が技術そのものだという認識になっていると思います。

世間一般ではそう思われている中、昨日行ったのは、私の考え方に共感し、西本塾にも参加してくれて指導に取り入れてくれている人間が指導してくれている数少ないチームですから、選手たちがどんな動きを見せてくれるのかとても楽しみにしていました。

限られた時間の中ですから、普段行なっている練習を見学させてもらい、気になることがあればコーチに話をして指導に活かしてもらうというスタンスで臨んだつもりでした。

それがせっかく私が来てくれたのだから、この際いろいろなことを直接指導してもらおうと、ほとんどの時間私が動き回って指導させてもらうことになりました。

私ももちろんその気があって、ちゃんとサッカーシューズを履いて行きましたが(笑)

もともと間接的に私の考えが伝わっているはずの選手たちでしたが、直接指導させてもらえるとなると、ついつい力が入り色々な事をやってもらうことになりました。

体の使い方を説明したり、うまく表現してくれている選手を見つけてお手本にしたりと、グランド全体を動き回り、出来る限り一人一人に声をかけて指導しました。

私自身も変化を感じましたが、普段指導しているコーチたちの目にも、短時間でどんどん変化していく選手の動きに驚きを隠せないようでした。

指導の内容は別として、今回自分の中に大きな変化を感じました。

今回はあくまでも見学者であって、もし指導をすることがあったとしてもボランテイアとしての立場での指導となります。

こういう指導はまさに私の仕事ではありますが、今回は仕事抜きの訪問でした。

私は仕事に対して常に結果責任を感じながら行なっています。
たとえ短時間であっても、その場限りの指導であっても、ただその時間を指導したという感覚にはなれません。

なんとか理解させたい出来るようにしてあげたいという気持ちが強く、時には厳しい言葉も発することもあります。

これまで関わって来た選手やチームを勝たせるという、唯一無二の命題を達成するためには、一切の妥協を許さず、すべてをかけて取り組んで欲しい、もちろん私自身が選手たち以上にその気持ちを強く持ち、表裏のある生活を送る訳にはいかなかったのです。

これが私の言う、『与えられた役割を演じる』という生き方でした。

この考え方の元となったのは、初めてプロの組織に飛び込んだ24年前、これがプロのサッカー選手かというお手本というか大きな影響を受けた、現在監督をしているある選手でした。

あえて名前は出しませんが、自分の専門分野では、この選手と対等以上な立場でケアをしトレーニングを指導しなければならないと考えた時、私の中での一切の妥協は消え去りました。

組織の一員であるという意識を持つこともなく、ただ目的のために最善を尽くすのがプロだと、最初に思い込んでしまったことが、その後のトレーナー人生にとって本当に良かったのかどうか、今では比較することもできません。

そういう自分を演じなければならない、そう思い込んで来ました。

昨日の私は、育成年代の子供たちと、呼んでくれた指導者のために、どんな私を期待されているのか、そんな私を演じていたのかもしれません。

それがなぜだかわかりませんが、そこへ向かう車の中から、指導している2時間という時間、そして家路を急ぐ20分の間も、とても心穏やかで心地良いのです。

こんな感覚は初めてだったかもしれません。

商売が下手だと言われ続けてはいますが、商売抜きで誰かのためにという感覚は私にはなかったかもしれません。

これまで作り上げて来た理論と実践を、安売りする訳にはいかないし、指導するに値する対象でなければ、本気になることもありませんでした。

それでも手を抜くなどという考えはないので、常に全力投球でとりあえず自己満足だけは出来る指導をして来たつもりでした。

昨日の私は声を荒げるどころか、ダメとか違うとか否定的な言葉もおそらく一度も使っていなかったと思います。
かと言ってダメなものに対して、適当な言葉で対処したつもりもありません。

実に自然に、選手達にとって分かりやすい言葉を選び、明るく大きな声で話しかけ、上手くいけばもちろん褒めと、自分はこんなことができる人間だったっけと、帰りの車中でほくそ笑んでしまいました。

指導することが楽しいと思ったことがこれまであったのかとも思いました。

すべては結果のため、何としても選手たちをこのレベルにまで引き上げなければと、必死にそういう私を演じてきたのだと思います。
と言うよりも、私自身がそう言う人間なのだと思い込んでいました。

年齢なりに少しずつ角が取れて丸くなってきたと言う言い方もできるかもしれません。
昨日の私も与えられた役を演じていただけなのかもしれません。

でもその役を演じることがこんなにも心地良いと感じられたのなら、本当の私はこっちだったのかもしれない、そんな風にも思いました。

これまでの私は、私自身が一番嫌う固定概念の中で、思い煩っていただけなのかもしれません。

どちらにしても、まだまだこれからの人生を歩んでいく中で、自分はこう言う人間なんだと決めてかかることはやめようと思いました。

信頼し指導を受けてくれる選手や、体の不調を訴え施術を受けてくれる人たちのために、私がどんな役を演じれば良いのか、それが自然に演じられてこそ、これまでの経験がお役に立てる一番の方法だと思います。

『人間の体を自分が思ったように操る』、言葉で言うのは簡単ですが、これほど難しいことはありません。

そこに少しでも近づくための方策を身に付け、指導するためには、やはり現場に足を運ばなければダメだと思いました。

目の前で動きをやって見せ、選手の動きや表情を観察し、どのタイミングでどんな言葉をかけてあげればこちらの意図が伝わるのか、本当に良い経験をさせてもらいました。

そしてそれが上手く伝わった時、本人はもちろん見ているすべての人がはっきりと感じられる変化を引き出せる、私の能力もなかなかのものだ思いました。

毎日接する立場ではないからこそ、責任ある立場ではなかったからこその気楽さもあったと思います。

でもこの感覚で接することこそが、選手たちのためにベターなものだったとしたら、どんな立場で指導を依頼されても、今回のような気持ちで接することは大事なことなのでしょう。

私の本性はどこにあるのか、そんなことはもうどうでも良いことなのかもしれません。

これからも、どんな役でも演じられるように、しっかりと自分自身を高めていこうと思います。

本日はただの雑感です、実利はないと思います。

これまで色々な仕事をしてきました、過去を語ってもあまり意味はないのですが、その時々で自分の力を十分に発揮させてくれる相手に出会ってきました。

もちろんそうでない相手の方が多かったと思います。

その違いは何かと考えると、相手が求めていることと、こちらが伝えたいことの違いということになるのだと思います。

私が会社員を辞め、施術を業として生きて行こうと決め故郷宇和島に戻って開業した2年後、広島にやってきました、34歳の時だったと思います。

サッカーという競技もプロと言う組織も、トレーナーと言う職業も、まったく知らないままに広島に来てしまいました。

軌道に乗りかけていた治療院をたたむことに迷いはありました。

信頼して通ってくれている人たちに対して申し訳ないという気持ちももちろんありました。

決め手となったのは、当時の責任者だった方の一言でした、「あなたが宇和島で発揮して信頼を得ていた技術を、このクラブの選手たちのために発揮して欲しい」、その一言でした。

何の計画性もなく、会社を辞め、勢いで開業してしまったため、いわゆる経営のノウハウというものをまったく持ち合わせていませんでしたし、自分が進むべき方向性も定まっていませんでした。

ただただ自分の技術を高めて行きたい、それだけだったと思います。

今でも発行されていると思いますが、トレーナーや施術者が対象の雑誌を読み、こう言うところに紹介されたり記事を書いている人たちの技術は、駆け出しの私には想像もつかない凄いレベルの人たちなんだろうと、いつかは自分もそういうレベルに追い付きたいと、単純に考えていました。

それが面接のような形で訪れた広島で、何人かの選手の体を診て欲しいと言われ、普段を同じように施術を行ってみると、選手から返ってくる言葉は私にとって意外なものばかりでした。

一言でいうと、私の技術は過去に体験したことがない体の変化をもたらせてくれた、というものでした。

何人かに施術し、異口同音にその言葉を聞くことになり、プロと言うある意味後のない立場におかれた選手たちの切実な言葉に、自分の技術をこういう人間たちのために使ってみたいと強く思い、翌日帰る頃には気持ちは大きく傾いていたことを覚えています。

その後チームの一員となったわけですが、「あなたが宇和島で発揮して信頼を得ていた技術を、このクラブの選手たちのために発揮して欲しい」という言葉を信じて仕事をしていた私に、容赦なく浴びせられたのが、「トレーナーなのに・・・」という言葉でした。

トレーナーの仕事は、練習や試合の前にテーピングをして、練習が終わればマッサージをして電気治療をして針を打ってと、私の技術や広島に来ることになったいきさつを知らない選手やスタッフ、そしてフロントと呼ばれる現場を知らない人たちからも、直接的間接的に私の仕事を批判する声が聞こえてきました。

そういうトレーナーの人員を増やしたかったのなら、そういうことをやりたい人を雇えば良かったのです。
私はそんなことをするために広島にきたつもりはありませんし、それがトレーナーだというのなら私はトレーナーではなかったかもしれません。

私は選手と一緒に戦いたかったのです。

どうすればこの選手を早期に練習に復帰させられるか、レギュラーであれベンチ外の選手であれ、能力的に向上の余地があると思えば、そのための方策を提案し一緒にトレーニングをしました。

なぜトレーナーがそこまでやるのか、もっと他にやることがあるのでは、そんな言葉を無視して選手がチームが少しでも向上するために、私の知識や技術が役に立つことがあるのなら、当然そちらを優先しました。

選手にもっとうまくなってほしい、チームとして目の前の試合に勝ってほしい、それがすべてでした。

当然選手としては自分に関わってくれる時間が長いトレーナーに、良い評価を与えることになるのでしょうが、そんな評価を気にして仕事をすることはありませんでした。

目の前の選手が与えてくれる課題に、どう応えればいいのか、それは痛みに対する施術であったり、能力を向上させるためのトレーニングであったり、当然その当時の私では十分な対応が出来ていなかったかもしれません。

その時に思ったのが、過去に目標としてきた、幾多の有名な方々の理論や方法論、そういう方々は多くは指導者として、後進の育成にも携わっている訳で、教科書的には間違っていない方法論を身に付けている人間は、その当時でもたくさんいたはずです。

そういう人たちに学んできた知識や技術は、目の前にいる選手たちにとって本当の意味で役に立つものだったのかということです。

それを行っていれば自分たちは正しいことを行っている、一生懸命やっていることの結果として、選手が思ったような結果にならなくても自分の責任ではない、そういうことなのだと思います。

私は自分の言葉と行動に責任を負いたいと思いました。

時には選手にとって言われたくないような厳しい言葉もかけたと思います、そういうことも含めて、すべては選手を鼓舞するためのものでした。

当然全員に良く思われることはありませんでした。

そんな中で私のことを誰よりも評価してくれたのは、選手生命にかかわるような大きなケガをして、手術入院の後、復帰に至る過程をそれこそ一緒に戦った何人かの選手たちでした。

そういう選手に関わっていた時期、申し訳ないですが他の選手に対して何をしていたか、正直ほとんど覚えていません。

それでも当時の選手から、私が休日返上で若手のトレーニングを指導してくれたとか、リハビリのトレーニングに付き合ってくれてお蔭で、今の自分があります、などという言葉を聞き、記憶力が薄れたのか、目の前のことに集中しすぎて、すべてを覚えていないんだなあとか、色々なことを考えました。

当時からトレーナーと言う職業も分業化されシステマチックになることは言われていました。

しかし、私が相手にしていたのはプロのスポーツ選手たちです。

生活のすべてをかけて戦っているといったも過言ではない人間たちです、当たり前のことを当たり前に出来て、毎日ちゃんと練習していますという選手が生き残っていける世界なのでしょうか。

そういう選手たちを相手に仕事をする立場の我々が、他の人と同じ知識や技術を持っているという証の資格を武器に、組織として対応する、で良いのでしょうか。

こちらも同じプロとして、人より秀でた何かを持って選手に向き合うことが必要なのではないでしょうか。

選手のために必要な技術がないのなら、すぐにでも学んで身に付けるべきだし、それが出来ないのなら潔く身を引くべきです。
評価は選手がするものであって、組織がするのではないはずです。

現場を離れてもう5年になりました、現場への気持ちがゼロになったわけではありませんが、改めて外からプロの組織を見ていると、組織を維持していくためには仕方がないんだろうなと感じるところもあります。

しかし、やはり私の生き方から考えると、選手のためにもっとできることがあるんじゃないかと言いたくなることがたくさんあります。

広島に移り住んで四半世紀が過ぎようとしています、当初関わっていた選手たちが指導者になり、そして父となり、親子二代に渡って指導させてもらったりすることも何例かありましたし、指導者となったチームの手伝いをさせてもらったこともありました。

だから一般の方が知ることのできないことも、多少は知ることになります。

歯に衣着せず何でも言いたいことは言ってきたつもりですが、流石に言えないこともあります。

私を信頼してくれる人間に対して、それを損なうような結果だけは避けなければなりませんから。

まさに奥歯にもののが挟まったような言い方になりますが、私には世の中を変える力も、組織を変える力もありません。

それでも私に何とかして欲しいと言ってくれる人間に対しては、最善を尽くしています。

そういう選手たちと、いつ出会うのか、どんな状況で出会うのか、それは偶然ではなく必然だと思います、今がその瞬間です。

1年後3年後、そして20年後、その縁が続いていようとその場限りになっていようと、瞬間瞬間、私に出来る最高の対応をしたと、自分にウソ偽りなく思える仕事が出来ればそれで十分だと思います。

今、息子智志は私が歩んできた道を歩み始めています。
私から学んだ技術と生来の優しさで、良い仕事をしてくれていると信じています。

振り返った時に、後悔とかあの時こうしていればという反省などしても仕方がないことです、今この瞬間、自分に出来る精一杯のことをし続けて経験を積み重ねて欲しいと思っています。

今日に記事はまったくの雑感で、実利はありません。

もうすぐ59歳、この道を30年ほど真っ直ぐに歩いてきた私の独り言のなかに、同じような道を歩んでいる人たちにとって、何か感じてくれるところがあったかもしれません、本日は以上です。

健康のために運動をしなさいって何をすればいいのでしょうか。

日々さまざまな人と接していく中で、人間の体はどういう風に作られているのか、またどういう風に使って行くことが、それぞれに与えられた能力を十分に発揮し続けることができるのかを考え続けてきました。

体の痛みを訴え、それを少しでも和らげたいと施術を受けに来ていただく方、アスリートとしてトレーニングを重ね、立派な体を作り上げてきたにもかかわらず、一番の目的である競技動作の向上がみられないと悩み、私の元を訪れてくる競技スポーツ選手、また育成年代で、これから将来に向かって大きな夢を持ち、早い時点で私の理論に沿った動きづくりのトレーニングを指導して欲しいとやってくる子供たち、まさに老若男女、様々な方に心を寄せてきました。

そうした日々の中で、人間の本質は骨盤と背骨を中心とした6方向に動くことができる能力をもって、2本足で立って生活する動物であるという結論めいた考えに至っています。

地球上で重力に抗し、二本足で立ち続けるという行為は、我々が想像する以上に大変なことだと思います。

立っている時ばかりではありません、座っている時にも上半身を起こしておくということではまったく同じことが必要になります。

そういう生活を何年何十年と続けて行くことで、体を真っ直ぐに支えておくために必要な筋肉は疲弊し、その姿勢を維持するために体を支える筋肉は、型にはまったような状態になってしまいます。

ベッドの上で仰向けになってもらうと、当然体を支える筋力は必要ないにもかかわらず、立っている時の緊張は消えることなく、踵とお尻と肩甲骨、そして後頭部の4点だけがベッドに接していて、あとの部分は緊張したまま、まったくベッドに付いているという感覚がないことに気付きます。

そんなことは普段考えてもいないと思いますので、私に指摘されても、そう言われればそんな気がするという方もいれば、まったく感覚できないという人もいます。

そんな体の緊張状態が続いたまま、いくら体にいいと言われている高額な寝具に横たわったとしても、本当の意味で体をゆったりと休ませるという状態には成り得ないのです。

そんなことをお話しすると、寝入りばな何となく体の姿勢が落ち着かなくて、仰向けになったり横向きになったりを繰り返しているという方がほとんどです。

なぜそういう状態になってしまうのか、「重力に抗して2本足で立って生活していくのだから、仕方がないといったじゃないか」、もちろんそうです。

しかし、本当に真っ直ぐ立っていることだけが我々人間に与えられた能力だったのでしょうか。

四足動物でも、時々二本足で立つことがありますが長続きはしません、骨格の構造がそう出来ていないからです。

我々は二足歩行で真っ直ぐに立っていることができますが、真っ直ぐだけではなく色々な方向に体を動かすことができます。

それがずっと言い続けている、「人間の体は骨盤と背骨を中心として関節を6方向に動かせ、それらを連動させて使うことができる」、ということなのです。

重力に抗しバランスを保っているということは、ただたんに体幹の安定とか筋力の向上の結果ではなく、様々な方向に揺らぎながら、出来るだけ少ない筋力発揮で骨格を維持しているということなのです。

そのために必要なのが、骨盤と背骨を中心とした6方向への動きを、それぞれの持って生まれた能力、簡単な言葉で言えば可動域ということになりますが、できるだけそれらを長い年月保っておけるかということになると思います。

ある一定の年齢に達すると、「運動不足で何か運動を始めたいのですが、どんなことをやったらいいでしょうか」という質問を受けることが多くなります。

「慢性の腰痛やその他体の不調があり、運動らしき運動はここ何年何十年も行ってきませんでしたが、おかげさまで楽になったので、元気で長生きするために運動を始めた方が良いですよね」、と言われることもあります。

その時私がお答えするのが今日のテーマです。

手軽に行える運動と言えば、ウォーキングやジョギング、ラジオ体操などがあると思います。

また体の負担が少ないからとプールに通ったり、ヨガや太極拳といった、いかにも体によさそうなイメージのものもあると思います。

私はそれらを行うことが悪いなどというつもりはまったくありません。

しかし、現実としてそれらが原因で体のどこかを痛める人が多いことも事実です。

体のために健康のためにと思って取り組んだことで、健康を損なってしまったら本末転倒です。

では健康な体とはいったいどんな体なのでしょうか。

もちろん病気やけがもありますから、すべてをひとくくりに語ることは出来ません。

しかし、体にとって良い運動はと聞かれたら、私の答えはひとつです、今日何度も登場しているキーワード「骨盤と背骨を中心として6方向に動かす体操をしましょう」と。

元々持って生まれた能力であるにもかかわらず、年を重ねるにつれ使わなくなっていく関節運動の方向性と可動域、関節の角度が変わるということがイコール人間が動くということですから、骨を動かすために必要な筋肉の収縮も少なくなってしまうということです。

ウォーキングをしようと、競技スポーツ選手のように激しい運動をしようと、その他名前を出した様々な運動をしようと、この持って生まれた6方向の関節の運動という意味では、まったく足りていないのです。

昨年の9月、私の著した本を読んでくださった、岐阜県にお住いのご夫婦から電話がありました。

60代の奥さんがパーキンソン病を患い、ここ数年で症状が悪化し、背骨が丸くなってしまい体の自由が利かなくなり、歩行や日常動作にも支障をきたす状態になっているとのことでした。

実は私の長女が音大に通っている時、若年性パーキンソン病の診断を受け、音楽の道を諦めざるを得なくなったということを経験していました。

当然パーキンソン病に付いての知識は一般の方以上にあって、もちろん治るとか治らないとかいうレベルの問題ではないことは承知の上で、ご相談いただいた際にも、「私の技術が今のお体の状態にどれだけお役にたてるのか、まったく想像もつきません」とお答えしたのですが、とにかく一度施術を受けに行きたいと言っていただきました。

お体のこともあり、途中自由に休憩が取れるということで、ご主人の運転する車で7時間近くかけて広島まで来てくださいました。

遠くから来ていただいたので少しでも長く時間をかけたいと、2時間の予定で施術を始めましたが、途中トイレに行きたいと言われ、ご主人と二人で手を貸してベッドから降りていただき、すぐ目の前にあるトイレにお連れしようとした時、何とベッドから降りた奥さんが杖を突くこともなく自力で歩いてトイレに行かれ、帰りもご自分でも不思議そうな顔をされながら、やはり自力で歩いてこられたのです。

私も驚きましたが、お二人はもっと驚いていました。

そんなことがあって、私の施術が少しでも体を楽にしてくれると思っていただいたようで、冬の時期は雪が降ると危ないので我慢していただきましたが、先日4回目の施術を受けに来ていただきました。

この間も、私が指導した体を6方向に動かすという体操を、毎朝40分以上もかけて熱心に行ってくださっていたそうで、丸まってしまった背中は真っ直ぐにはなりませんが、ベッドの上で行う施術の中で行う6方向の動きは、初めてきた頂いたときとは比べ物にならないほど上手に、そして自由に動けるようになっていました。

人間本来の体の動きを取り戻すことでどんな変化があるのか、それまでなかった食欲が増し、間食までされるようになり、食べることが楽しくなったそうです。

以前から奥さんの様子を知る方々からも、元気そうになったと言われ喜んでおられました。

寝たまま体操はこういう方にはもってこいで、まだまだ元気な我々には物足りないと思うかもしれません。

では、ウォーキングやジョギングに求める心肺持久力が、本当に我々の日常生活に必要な絶対条件なのでしょうか。

エアロビクスに代表されるような激しい運動によって得られる、筋持久力や心肺持久力は本当に必要なのでしょうか。

体に苦しい思いをさせることが、本当に体のためになっているのでしょうか。

6方向の体操をゆったりと行ってもらう時、体が温かくなっていくような気がするとか、体の背面の4点支持だった緊張が取れ、体全体がゆったりと横たわっているような気がしてきたという感想も聞かれます。

筋肉の緊張がほぐれ、血管や神経の圧迫が取れることで血流が改善し、その結果さらに筋肉がリラックスしていくという好循環が起こります。

日常生活を円滑に行うために必要な体はこれで十分整えられるのではないでしょうか。

そんな楽なことではダメだ、もっと頑張ってもっと体をいじめて、そう思う人はそうやれればいい、ただそれと引き換えに負わなければならないリスクはしっかり自覚してください。

何事も加減です、好い加減を見つけなければなりません。

スポーツを行う時、最初は楽しみのつもりでも、義務感が出てきたり勝ち負けを競うようになったり、時計を気にするようになると、健康のためという当初の目的からどんどん離れて行きます。

人間という動物に生まれ、その体に仕組まれた体の使い方を上手に使いこなすということの意味をよく考えたうえで、あとはそれぞれの考えで好きなことをやればいいと思います。

ただ私が健康のためにどんな運動を行ったらいいですかと問われれば、今日の記事のようなことになるということです。

長くなったのでもうやめますが、近いうちに、体を痛める選手が続出しているにもかかわらず、何の疑いもなく自分の指導を続けている指導者に対して、一言言わせてもらいたいと思います。

西本塾から1週間、7名の参加者のうち5名の方から感想が届きました。
感想は義務ではないと言って会を締めましたが、二日間全身全霊をかけて行った西本塾、少し残念な気がしています。

常識や固定概念に縛られている人は、読んでも面白くないと思いますので悪しからず。

前回記事にした西本塾生のNさんから、指導を受けた感想を送っていただきました。
世間の常識や、固定概念から離れられない人には、ただの自慢話どころか、私とNさんの作り話としか受け取れない内容かもしれませんので、そういう方は読んで頂く必要はないことをお断りしておきます。

Nさんご本人は、卓球選手として失礼ながらそれほどの実績をお持ちではありません。
しかし、お子さんたちを手塩にかけて指導し、次男のT君は、小学6年生の時、全国でトップを争う選手にまで成長させたという、私から見ても信じられないような結果を残した素晴らしい指導者です。

山間の小さな町で、ライバルの存在もなく、けっして練習環境に恵まれているわけではない中、Nさんの指導だけでトップレベルにまで導いたことは驚きでしかありません。

そんなNさんから届いた、T君を何とかして欲しいというSOSのメール、私が燃えない訳がありませんでした。

まずはお読みください。

西本先生へ
急なお願いにも関わらず、わざわざこちらまで出向いてご指導いただき、誠にありがとうございました。

先生は、まず最初に子ども同士で軽く打たせてから、すぐに修正点を見つけてくださいました。
その様子を動画などでしっかり確認してから、動き修正の様々なドリルを行ったところ、あっという間に「これだ!」という、思い描く形になったのです。

ほんの2時間足らずのことでした。呆気に取られるというのはこういうことなのかなと思いました。
もちろん、期待して先生にお願いしたわけですが、「ここまで、なるの?」という、信じられない出来事を目にしてしまい、なんだか狐につままれたようです。


失礼な言い方かもしれませんが、他に表現のしようがないというのが正直な気持ちです。
結果先生から、「なんだその生返事は」と言われてしまいましたが、凄いという部分を超えると中々凄いとも言えなくなってしまうということですので、ご容赦いただきたいです。

それにしても、ここまでのものを人に見せられるようになるには、とてつもない研鑽と時間の積み重ねが必要なのではないかと感じました。
先生が提唱されている理論は、あまりに深いものであると再認識した次第です。
同時に、生半可な気持ちでは枝葉さえ真似することはできないものではないかとも推察いたします。


私も西本塾を受講し、練習会は本日を含め2回体験しましたが、塾生と言うのも恥ずかしく、私などでは入り口に触ったぐらいで、入り口を入れてもいないですね。
自分の指導力の無さも痛感し、指導している子ども達にも申し訳ない気持ちで一杯です。
私も一からもう少ししっかり勉強をしたいと思います。

先生が帰ってからですが、そのままその場所で練習をしました。
変化が大きかったため、打球の入る確率は多少落ちましたが、それでも威力は良い感じです。
時々スイングを確認すると、やはり前の感じに戻ってしまう動きが出てくるので、時折軽いラリーを混ぜて復習しながら練習をしました。
背中の張りも大きいようなのでその日は2時間程度の練習で切り上げました。

翌日は昨日のドリルを一通り行いました、背中の反りも昨日より少し良くなっています。

打球したときですが、変化にも慣れたため、確率は戻っています。
無理の無い動きだからでしょうか、たった1日で良かった時に戻っています、目に見えて良くなりました。
打球を受けていると迫力が出てきた感じがします、特に連続で打った時の威力は1.5倍ぐらいになったように思えました。
これは良くなると昨日確信したとおりとなりました、本人も納得しています。

翌々日もドリルを一通り、さらに背中の反りが出てきました、お兄ちゃんまではいかないけれども、近づいてきました。
打球した様子も楽そうに見えます、バックスイングでの沈みのコツを掴んできたようです。

おかげで、帰省中にこの技術はしっかり磨いて、戻ろうとやっていた練習ですが、ほぼ出来るようになりました。
様々な良い影響から、本人もこのトレーニングをやれば効果が高いということを十分認識してくれたようです。
なので、しっかり継続してくれるはずです。
 
そして、水曜日の朝再び戻っていきました。
毎度ですが、送り出すときは辛い気持ちになります、しかし、今回は良くなるのではないかという希望もあります。

前年度は辛い一年でした。時々見る度に、少しずつズレてきている子を見て、我慢・我慢の一年でした。
もうこれ以上はどうにもならない直前まで来たと感じていましたので、本当に救われたと思っています。
手を差し伸べていただいて、ありがたいとしか言い様がありません、おかげさまで助かりました。
このご恩に報えるよう、なんとか頑張ってほしいところです。

また、変化があったり結果が出たときには、ご報告いたします。
なんとお礼を申し上げれば良いのかわかりませんが、一人でも多くの方が西本先生の指導を受けられれば良いなと、心から感謝し思った次第です。
貴重な時間をありがとうございました。

卓球少年Tの父で、指導者Nより

私はもちろん卓球の経験はありません、ちなみに私が子供の頃から夢中になったのは野球で、それも高校の途中で挫折してしまったという、誇れる経歴などまったく無い人間です。

それが今回のように、やったこともない競技の選手、それも日本が世界のトップレベルである卓球という競技で、この四月から中学二年生というジュニアの選手とは言え、日本でトップクラスの選手を指導し、父親でありここまで育て上げたNさんが、私のやることを見て、驚きを通り越したという変化をもたらす指導をしてきたのです。

なぜそんなことができるようになったのか、それは私が人間の体とはという「命題」を、常に考えながら人間の動きそのものを見続けてきたからです。

誰に何を言われようと私にはそう見える、いや今回のように見たこともない選手の動きですら、Nさんから伺っていたこれまでの経緯や、一昨年の年末に一度だけ本人の姿を、走り方の体験会に参加してくれた時に見ただけの選手でしたが、少ない情報の中でも、今回不調に陥った原因も、何をどう説明して、体のどこをどう使えるようにしたら、これまで以上の動きは出来るようになるのか、現地に伺う前に、相談のメールを読んだ時点ですべて頭の中でストーリーが完成していました。

この事実を信じられない、お前にそんなことができるわけがないという、一般的な常識や固定概念の中でしか物事を見られない人には、今回の記事の最初に書いたように、読むだけ無駄だと思います。

これまで縁あって自分が見たこともない競技の選手や指導者の指導も行ってきました。

どんな競技であっても、それを行うのが人間であれば、私の頭の中で改善策は練り上げられ、選手を目の前にすれば考えてもいなかった内容のドリルを行わせたり、考えてもいなかった言葉が自分の口から発せられることに、私自身が驚き、そしてそれらを使って、ワクワクしながら指導していきます。

客観性がない、論理的でない、何とでも言ってもらいましょう、そんな言葉を並べられて、本当によくなっていく選手がいるのでしょうか。

私の考え方に興味を持ち、私の指導を受け入れようとする人に対して全力を尽くし、選手にとって少しでも役に立つ指導ができればそれで満足です、万人に認められようとは思っていません。

とにかく今回のように、私がこれまで全く縁のなかった卓球という競技のハイレベルな選手を何とかして欲しいなどという、ある意味「無茶振り」をされたわけですが、未経験の競技、見たこともない競技、無茶振り大歓迎です。

「さすがにお前にもこれは分からないだろう、こんなことは出来ないだろう」、そういう無理難題を吹っかけてくれればくれるほど、「見とけよ」の気持ちが燃え盛り、私をやる気にさせてくれるのです。

今回、NさんからのSOSから、私にとっても久し振りに新鮮な気持ちで、楽しい時間を過ごすことができました。

つまらない常識や固定概念など私にはまったく必要ありません、20年前より10年前、昨日より今日、いや今日より明日と、自分の発想を広げ、私を頼ってくれる人のために頭と体を動かし続けて行こうと思います。


教員が部活動、特にスポーツ競技を指導するということについて思うこと。

今日書くことは、昨今話題になっている、部活動にも週に一度は休日を設けることが必要だとか、指導する教員が忙しすぎるということがテーマではありません。

以前西本塾に参加してくれた、ある高校でソフトテニス部の顧問をしている教員から届いた、ラインメッセージを読んで、私が感じたことを書いておこうと思いました。

彼は現時点では未だ正式な教員ではありません、講師という立場で教壇に立ち、放課後はソフトテニスを指導しています。

教員採用試験というのでしょうか、各地方それぞれ狭き門のようですが、実際に人員が足らないからこそ彼のような立場の人間に正式な教員と同じ仕事をしてもらわなければならないのでしょうから、予算のこととか諸々あるのでしょうが、矛盾だらけの教育現場だと思います。

講師という立場は不安定のようで、毎年のように移動転勤を繰り返し、今年度もまた四月から新しい学校に移動になったそうです。

そうして経験を積みながら採用試験を受け続けている講師という立場の人間がたくさんいるそうです。

そのことは制度上仕方がないと諦めつつも、目の前の生徒たちのために真剣に向き合う彼の姿勢は、西本塾の二日間を通して、またその後のやり取りを通じても十分伝わってきました。

彼は学生時代ソフトテニスに打ち込み、それなりの成績を残してきたそうです。

当然教員になっても、ソフトテニスの指導を行いたいという気持ちがあって、現実に行く先々の学校で顧問を務めています。

教員としての専門は国語科で、体育ではありません。

過去に西本塾に参加してくれた人の中にも、同じように体育ではない科目が専門でありながら、加えて自分が学生時代経験していない競技種目の顧問として、生徒たちの指導にあたらなければならないという人が何人かいました。

そんな彼らが私に求めてくれたことは、当たり前ですがそれぞれの競技の技術ではありません。

その競技に必要な基礎体力や、何より私が提唱する「正しい体の使い方」を知ることで、指導する生徒たちにケガや故障の不安を少しでも少なくしてあげたい、たんなる技術指導ではない部分に目を向けることで、競技力を向上させてあげたい、自分が行っている指導は本当に生徒たちにとってベストなものなのか、という真剣な動機からでした。

彼らの真剣な態度に、こういう教員に指導を受けることができる生徒たちは本当に幸せ者だと思いました。

ところが、「国語科なのに、体育や保健の分野のことを、わざわざお金を使って学んでも仕方ないだろう」という言葉を、周りの教員たちから言われたというのです。

教員の仕事は多岐に渡ると思いますが、基本は「それぞれの教科を分かりやすく教える」ということは当然のことです。

しかし、現実として、経験のあるなしに関わらず、スポーツまた文化系に関わらず、教科以外の部活動というものの顧問という仕事は避けては通れないことだと思います。

私が社会人野球のチームで仕事をしていた時の選手で、現在高校の教員になっている人間がいますが、社会人野球の頂点である都市対抗野球大会にまで出場した彼でさえ、現在自転車競技部の顧問という立場で、野球部の指導をさせてもらっていません。

私から見れば、もったいないの一言です。

それどころか、学生時代まったくスポーツの経験がないという教員まで、顧問として指導にあたらなければならないことも現実にはたくさんあるようです、未経験のスポーツを指導することがどれほど大変なことか、誰が考えても分かるはずです。

いわゆる強豪校で、指導者が長年変わらず、そこに行けば必ずその指導者の指導を受けられ、全国大会への近道となっている学校はたくさんあるでしょう。

しかし、入ってみなければどんな教員にどんな指導を受けるのか、まったく分からないということがほとんどではないでしょうか。

全国大会を目指し、休日なんかいらないと考える生徒や保護者、そして指導者がいることは否定しませんが、それぞれのレベルで同級生、先輩後輩と助け合いながら、三年間それぞれのスポーツに打ち込んだという経験も、人生の大きな財産になると思います。

指導する側にも色々な対場や考え方があっていいと思いますが、やはり「生徒のために」が、一番なのではないでしょうか。

教員の方々がどういう気持ちで指導をされているのか、私には分かりませんが、少なくとも自分の時間とお金を使って、生徒たちのために少しでも良い指導をしてあげたいという、熱い気持ちをもって西本塾に参加してくれた彼らに対して、否定的な言葉を投げかけることは違うのではないでしょうか。

自分の専門の教科をきちんと学習させたいという気持ちと、部活動でも生徒たちのために少しでも良い指導が出来るようになりたいという気持ちのどこが違うのでしょうか。

私が西本塾で何を教えているのかはもちろん知らないでしょうが、体のことは体育専門の教員がいるのだから聞けばいいじゃないかとはいかないのです。

どんな仕事でもセクショナリズムという壁があったり、人と違うことをやろうとすると、出る杭は打たれる的な扱いを受けることがあると思いますが、目の前の生徒たちのために少しでも良い指導をしたい、そのために必要だと思うことがあれば、自分から求めて学びに行く、こんな立派な姿勢をなぜ非難されるのでしょうか。

私が生徒であれば、こういう教員の元で学び、スポーツに打ち込みたいと思うはずです。

忙しくてそんな暇はないと言われそうですが、一年に一度でも、例えばですが、私の話を聞いて知識を広める機会を作るとか、組織として取り組めばできないことはないと思います。

提言とかそういう大袈裟なものではなく、せっかく教員という素晴らしい仕事に就いたのなら、なぜ教員になったのかという原点に返って欲しいと思います。

おそらくそれが、生徒たちを立派に育てたいという純粋な気持ちであったのなら、一生懸命学び続け、それを生徒に還元しようという彼らのような人間を、間違っても非難しないで欲しいと思います。

それどころか、せっかく学んできてくれたのだから、自分たちにもその情報を共有させて欲しいという気持ちになぜなれないのでしょうか。

私は縁あって私と出会った人たちのために、少しでも役に立てるように日々努力しているつもりです。

教育に携わる人たちには、是非目の前の生徒たちに真剣に向き合うために視野を広げて欲しいと思います、そして少しでも生徒たちの役に立つ何かを一つでも多く身に付けて欲しいと思います。

四月から新しい学校で新しい出会いが待っている彼には、とにかく今の気持ちのままで、誰よりも生徒の気持ちに寄り添う教員であり続けて欲しいと思います。

他の教員たちがそうでなくなってしまっていたとしても、他人は変えられなくても自分は変えられますし、今の自分を保ち続けることも出来るはずです。

私が伝えたことが、彼の役に立ち、そして生徒たちの役に立ってくれていることを願うばかりです。


プロフィール

Author:西本 直
1993年、Jリーグサンフレッチェ広島を皮切りに、社会人野球三菱重工広島・協和発酵・ヴィッセル神戸・川崎フロンターレ、そして広島カープ佐々岡真司投手など、プロアマ問わず競技レベルのスポーツ選手から一般の方まで、トレーニングやメンテナンスの指導を行ってきました。
その経験と知識の蓄積を「西本理論」としてまとめ、一人でも多くの方に実践していただくことが、これからの私の使命であると信じ、このブログから発信していきます。
私の理論はスポーツ選手のみを対象としたものではなく、ビジネスマンや家庭の主婦まで老若男女すべてに当てはまる不変のものです。
指導や講演のご依頼も受け付けています。
実名でツイッターも書いていますので、チェックしてみてください。
また、2013年9月9日にConditioning Studio 操をオープンしました。
また、遠隔地にお住まいの方を対象とした動き分析とアドバイスを行っています。
詳細は「スタジオ操」のホームページ内の「遠隔サポート」をご覧ください。
「第25回西本塾」を11月18・19日の土日に開催を予定しています。
詳細はStudio操ホームページ内の「講習会情報」をご覧ください
尚、深める会も12月10日に予定しています。

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